帝政原理思想と皇帝の末裔 第一話
どれほど汚れていたのだろう。色が見違えるようだ。
いつのまにかクリーニングされた服が戻ってきていた。ピーコートは泥がすっかり落とされ、ほつれて取れかかっていたボタンもかけづらくなるほどきっちりと付け直されていた。保管していたところの臭いだろうか。コートハンガーから外すとほのかに樟脳の臭いが漂った。
シャツは真っ白になり、アイロンがけをされパリッとのりまでつけられている。ここまで綺麗にされると、いつまでも綺麗なままでおいておきたくなり逆に着づらさもあるくらいだ。
アニエスの着ていた灰色の軍服も元の綺麗なグレーに戻っていた。剥がした連盟政府のワッペン跡は綺麗に縫われ、光に当てるとわずかに縫った跡が反射しているかどうかの程度まで修繕されていた。アニエスがうなじに両手を当て持ち上げるようにシャツから髪を出し、鼻から大きく息を吐き出している。久しぶりの綺麗な着心地に落ち着いたのだろうか。
それからユリナに借りた化粧道具を使い始めていた。三面鏡に反射した彼女の顔を見ると目が合ったが、眉を上げて微笑むとすぐに化粧に戻った。複製されたシャツの袖に通すと、作りたてのあの頃の感触が前腕、上腕を駆け抜ける。またここから始めるような真新しさを感じたが、あのときとは違う。彼女に依存させ、その代償の搾取はもうしない。
すぐに出発することになるだろう。コートを羽織り、椅子を反対にして化粧をするアニエスの背中を見つめながら待った。
「おまえら、戻るのか?」
“帝政思想狩りか。法律省職員、グラントルア共同溝内にて遺体で発見。政省職員、市中警備隊員に続き今週で三人目”
図々しくも朝食までいただいていこうと二人連れだって食堂に向かうと、早い時間にもかかわらずユリナが先に来ており、新聞を読みながら紅茶を飲んでいた。思わず物騒な文字の書かれたスピーク・レポブリカ紙に目が行ってしまった。
その新聞がチラリと下がると、眠たそうな目だけが俺たち二人を見てきた。だが、すぐに新聞の裏に消えていった。
「マゼルソンに会ってけ。ジジィがお前に会いたがってんぞ」
「わかった。じゃ、ルーアの末裔をあまりうろつかせるわけにはいかない。俺一人で行……」
と言いかけるとコートの袖をぐいっと引かれた。アニエスの言いたいことはわかった。だが連れて行くなど論外だ。それなら、
「アニエスを会わせたくない。断ってくれ」
俺は椅子に腰掛けながら断った。当たり前だ。帝政原理思想など掲げる者に、帝政ルーアの末裔を会わせるわけにはいかない。
「まぁ実を言うと」とユリナは新聞を読むのを止め畳みだした。
「ジジィはお前じゃなくてアニエスに会いたいんだとさ」
畳んだ新聞紙をテーブルの上に置くと、真っ赤なイチゴのジャムが薄くのばされた食べかけのトーストに手を伸ばした。
ユリナの言葉に背筋が凍った。マゼルソンにアニエスを会わせると言うことは、帝政思想ではないが皇帝の信奉者に皇帝の末裔を引き合わせることと等しい。そのようなことは帝政を排除した共和国の四省長官の一角ともあれば、看過できない由々しき事態であるはずだ。
「……ここにアニエスがいるのを言ったのか?」
マゼルソンの思想のことを知らないかもしれないと思い、咄嗟に中途半端な質問をしてしまった。
「マゼルソンは、アニエスがたびたびここに来てることを選挙の時から知ってる。それにジジィの息子カストは死ぬ前に一度会ってるからな」
ユリナにマゼルソンが掲げる思想の話をした記憶は無い。だが、まるでもう知っているかのように落ち着き払っている。
「まさか、ユリナはマゼルソンにアレを聞いたのか?」
鎌をかけたわけでは無いが、含みのある聞き方をすると、
「聞いた? ちげーよ。ヤツのオフィスに行きゃ誰でもアレに気づく。直接聞いちゃいねーがそういうことだろ」
とアレが何であるかわかるような返答してきた。帝政原理思想とはっきりとではないが、マゼルソンが帝政思想ではない帝政思想であることに気がついているようだ。
「放っといていいのか?」
ユリナはジャムの入った瓶からスプーンを取り上げた。赤くつぶつぶ入った半透明の小山ができている。そのまま紅茶に山盛りイチゴジャムが落ちるように入れられると、跳ねた紅茶がソーサーに点々と付いた。ユリナはそのままくるくると混ぜ、鼻から香りを大きく吸い込んで目をつぶった。
「今ンとこ、意見の不一致はないからなァ。仲良くやらせてもらってるよ。そもそもジジィの思想は、一部の利益のためだけに皇帝を建前に持ち出すゲロ溜めみたいな連中のとは違って原理原典に近いからな。お前もジジィからいろいろ聞いてんだろ? 車はもう来てるから行ってこい。エンブレムがビンビコの黒塗りスモークガラスのヤバ気なセダンが門の前でギラギラ停まってっと雰囲気わりぃから、食ったらさっさと行けな」
と親指で窓の外を指さした。
隣の椅子で黙っていたアニエスの方へ振り向くと、鋭くユリナを見つめていた。俺の視線に気がついてこちらを向くと、その表情のまま大きく頷いたのだ。