秘術巡る血族 第十話
以前使っていた部屋に荷物を置いているとき、俺は漂ってきた夕餉の匂いにわくわくと胸を躍らせてしまった。シンヤやククーシュカへの申し訳なさも確かにあったが、それ以上の本能には打ち勝てなかったのだ。
アニエスは屋敷に戻っても相変わらず元気がなさそうに背中を丸めていて食欲があるのか心配だったが、やはりその良い匂いはたまらなかったのだろう。おなかがぐぅぐぅなっているのが聞こえてしまった。食欲はありそうだが、食べて良いのか悩んでいる彼女の背中を押して食堂へと向かった。
用意されていた食事は早雪や噴火の影響を全く感じさせないほど豪華な物だったのだ。
それまで食べていたものがあまりにも質素なだけだったのかもしれない。鴨のローストのペチュナー・カナフや牛のカツのシュニッツェルと言った肉々しい料理に、思わず舌鼓を打ってしまった。食べ物が少ない状況での逃亡生活の中で久しぶりの脂身はこの世の物とは思えないほど美味だった。
ユリナは食事中に相変わらず愚痴ばかりだ。共和国内で帝政思想の動きが活性化の兆しがあるから市中警備隊を動かせと法律クソジジィに相談したら、まだ待てと濁されたことをグチグチと言い続けていた。シロークは、例の亡命政府のせいで仕方ない、それに動かすのには資金がいるし、彼は政省長官も兼任しているから仕方ないのだろう、とユリナをなだめていた。女中たちも軍服では無く、フリフリのロングスカートに戻っていた。ジューリアさんももれなく。
マリークはかなり成長期のようだった。あっという間に身長が伸び、あと三ヶ月もすれば俺の身長を抜いてしまうだろう。やや反抗期の気があるが、魔法に関してかなり熱心に取り組んでいる様子だ。ユリナが直々に教え始めたが物足りない様子で、やはり現在の初等学校卒業後はどこかのキチンとした魔法教育機関に通いたいらしい。三大校のあるストスリアは友学連であり、比較的友好的なユニオンの従属国で三大校に通えないことも無い。だが、亡命政府などの件でぴりついている現状では少し厳しいだろう。
それを聞いたとき、和平について投げ出してしまったことを少しばかり後悔してしまい、思わず言葉数を減らしてしまった。アニエスも何か悟ったのか、ちらりと俺を見て仕方なさそうに笑うと、後は話を聞きながら愛想笑いばかり続けていた。
久しぶりに楽しい夕餉だった。だが、やはり投げ出しているようでどこか後ろめたさもあった。それから食事を終えるころには、アニエスの様子も元に戻っていた。だが、食べて元気いっぱいという様子でも無かった。
部屋に戻ると、仕様が変更されていた。寝間着やアメニティが二人分用意されていたのだ。ベッドも気を遣ってくれたのか、天蓋付きのキングサイズに変更され枕も四つ並んでいた。とりあえず一晩は泊まろう。
アニエスは嬉しそうにわぁと感嘆の声を上げながらベッドに向かっていった。やはり床や地面、良くて硬いベッドではなく、久しぶりのふかふかのベッドでゆっくり眠りたいようだ。彼女は腰掛けるとぼゆんぼゆんと跳ね返るベッドの感触を楽しんでいる。食事で元気を取り戻してくれたようだ。
ゆっくりと彼女の隣に腰掛けると、そのままふかふかのベッドに今すぐにでも倒れ込んでしまいたくなった。もしそのまま倒れ込んでしまえばすぐに夢の中に落ちていくだろう。食事でいつも通りになり、大きな寝床を見て少しばかり上機嫌になった彼女に水を差すようで嫌だったが、俺には彼女と話しておかなければいけないことがあったのだ。
「なぁ少しいいか?」と言うとベッドを揺らすのを止めた。何ですか、とは聞き返してこなかったが、その代わりに少し表情を抑え首をかしげて顔を覗き込んでいる。
「シンヤのことはわかったね?」
「時空系魔法の話ですか」
表情をみるみるこわばらせてアニエスはそう答えた。俺はそれに頷いて話を続けた。
「アニエス、君がやっていた高速移動はシンヤの使っていた物と同じだ。つまり、使いすぎると君もあんな風になっちゃう可能性もあるんだ」
真剣に聞いているのか、目を真っ直ぐ見つめている。ときどき視線が左右に動くが、それでも俺の目から視線を離さない。
「俺やシンヤはちょっといろいろ特別で、エルフもルーアも、フェリタロッサ家も関係ないけど時空系魔法を使えて、しかも副作用もたぶんない。でも、君はルーア家の血を引く者だ。ルーア家の短命な王たちの話も覚えているよね? だから、君の寿命についても不安定じゃないと言い切れない。君のお母さん、ダリダさんは長生きしているのも、その実は昔の時空系魔法の副作用で加齢が遅いだけで参考にはできない。この世界の人間の平均年齢ってまだ70歳くらいだけど、君の寿命はそれより短いかもしれないんだ。シンヤのように長生きできないのに、高速移動で時間を早く進めれば進めるほどに短いかもしれないその寿命に近づいてしまうかもしれないんだ」
「早く死んでしまうかもしれない、ということですね」
膝の上に丁寧に置かれていた掌を持ち上げると、両手で包んだ。
「俺はそれをどうしても避けたい。君を死なせたくない。看取りたくなんかない」
真っ直ぐに見つめてくるアニエスの瞳に部屋の間接照明が強く映り、彼女は息をはっとのんだ。
「やっと近くに居られるようになったんだ。何が起こるかわからないけど、俺たちはこれからだよ」
そう言うとゆっくりと近づき、背中に腕を回してきた。胸の中でやや下向きに顔を埋めると表情は見えなくなった。
「ちゃんと言えなかったけど、好きだよ。愛してる」
アニエスは胸の中でうんうんと頷いている。俺はここで彼女にも言って欲しいなど求める必要は無い。彼女は知らないが、俺は一度その言葉を彼女の口からすでに聞いていて、今になってやっとその返事ができたのだ。
「もう、高速移動、いや時空系魔法は絶対使わないでくれ。移動魔法の仕組みはわからないけど、それももちろんダメだ。でも、君のそばには俺がいるからどこか遠くへ行きたいときは言ってくれ。連れて行くよ」
頭を撫でると、頬をこすりつけるように頭を揺らした。そして、こもった声で「わかった」と一言だけ返事をした。