表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

485/1860

逃避行 最終話

「先生、エルメンガルト先生!」


 気がつけば俺はその背中に向かって呼びかけていた。大きな声に驚いたように肩を上げると、エルメンガルトはこちらへと振り返った。


「エルメンガルト先生、ご存じないかもだが、ストスリアは連盟政府から独立して今や友国学術連合という別の国になっている。連盟政府から分離独立した形だ。

 おまけに北部辺境の歴史を研究していた運動のせいで真相を求める人間がいるはずだ。今なら先生のブルゼイ族史は異端扱いされないかもしれない。戻る気は無いのか?」



「……ないね」


 しばらく沈黙した後、目を深くつぶり下を向いた。


「ストスリアには娘がいるはずだ。私とあの男とな」


 アニエスが追いかけるように一歩出ると、エルメンガルトの左手を引いた。


「なら行くべきだと私は思います。家族は大事ですよ。家族にかけてしまう不幸は親不孝だけじゃなくて、子不幸もあります」


 突然手を掴まれたエルメンガルトは驚いたようになったが、すぐさま表情を変えて微笑んだ。


「ガキのくせに言うねぇ。だが、会わんほうがいい」

「そんな!」


 アニエスは怒ったようになり、掴んでいた手に力を込めたのか筋が入った。エルメンガルトは手とアニエスの顔を交互に見ながら、


「黙りな、お嬢ちゃん。あんたが言った通り、家族にゃいろいろあるんだよ。

 家族でもお互いに個々の人間で、お嬢ちゃんとこみたいに仲が良いのが原則じゃあない。

 私の気が狂う前の噂じゃ娘はマテーウス治療院で立派に働いていたらしい。順風満帆のところに変なのが近寄ったら迷惑にしかならん。たかりに来たとしか思われんよ。

 それどころか顔も名前も思い出せないさ。探すことも難しい。母親失格だね、ハッ」


 と掴まれた手を両手でゆっくりと包み込むように引き剥がし背中を向けた。


「だが――」


 振り向かず聞き取れなくなりそうなほど小さな声でさらに続けた。


「だが、もしどこかで会ったら伝えとくれ。元気だとな」


 そのまま立ち止まることはなく、彼女の本に埋もれた住処へと歩みを進めた。


 去って行く猫背のエルメンガルトをアニエスと二人で見送った。

 自分をブルゼイ族のお姫様だと思っていた時とは違い、真っ直ぐ地に足を付けて杖さえつかずに歩いている。

 しかし、その後ろ姿は小さく、お姫様だと思っていたときよりも孤独で悲しげに見えた。

 辺りに乾いた風が吹き抜けて、笛のような細く高い音がすると小さな背中に垂れている長い白髪が揺れた。


「いいんですか?」


 アニエスは前を向いたまま、そう尋ねてきた。


「いや、これでいいと思う。エルメンガルト先生は生きてさえいれば娘に会えるさ。あの治療院に戻ってくれば」


 俺はそこに「平和になった後」と付け加えてしまいそうになった。投げ出したくせに往生際悪い。できもしないくせに完全に口癖になってしまっているのだろう。

 小首をかしげて「どういうことですか?」と尋ねてくるアニエスには笑いかけて、それ以上は考えないようにした。


 それから俺とアニエスは治療院に置いてあった大量の空の魔石に、ありったけの治癒魔法を込めるだけ込めて置いていき、クライナ・シーニャトチカを後にした。

 目指すところは頭の中にしかないが、方向は南東。早雪と日照不足でも南に行けば多少は温度が上がる。その分内陸なので雨は少なくなる。

 気温も高く、雨も降らないなら体を冷やして体力を消耗することもなくなると思ったからだ。


 落ち着きを見せていたククーシュカの襲撃は再び増加した。

 命は取られないまでも俺も狙われるようになったので、アニエスと二人ひたすら防戦をして逃げると言うのを繰り返した。


 日に一度は襲撃があるようになり、毎日顔をつきあわせるうちに戦うことにも慣れてしまった。そのせいで、ククーシュカを仲間外れにしているような感覚に陥った。

 俺たちは共和国にさえ逃げてしまえばククーシュカの追跡など回避できたはずだそれなのにしようとしない。それにアニエスもそれを言おうとしない。

 俺たち二人は、どこか彼女のために彼女の足で来られるところばかりを転々としているような気がするのだ。


 アニエスは覚えていない。だが、俺ははっきりと覚えているククーシュカの言葉。


“あなたは私と旅をすればいい。そのほうが私も困らない。何もない私にはあなたが必要。私を光の当たる場所に連れて行ってくれる”


 言葉も天気も、そこでに漂っていた鼻の奥に張り付き自らのそれさえも滾らせるような血の匂いも、そしてククーシュカの表情までも手に取るように思い出せる。

 ほとんど皆無に近い彼女の表情が、そのときはまるで自分のことのように分かった。悲しい、寂しい、孤独、寒さ。

 アニエスを殺されかけてもなお、俺はその瞬間を思い出すだけで悲しみがこみあげている。愛す……大事な人間が目の前で死にかけていただけではない、どこか別のところから来た哀れみ。それは間違いなくククーシュカの表情からだ。


 アニエスは殺されかけたことを全く覚えて、いや知らない。

 それ故か、襲撃を繰り返すククーシュカに嫌な顔一つ見せない。十回を超えた辺りから回数を数えていないが、回数が多くなればなるほど嫌悪を抱いてくるはずだ。

 にもかかわらず毎回真正面から立ち向かい、邪魔をしてくる者を蔑むようなは表情はしない。


 無視をしてはいけないと思っているのか、それとも俺の気持ちを悟っているのか。いずれにせよ、アニエスの優しさ故だろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ