逃避行 第十九話
閃光の放たれた方へと睨め付けるように向けられた視線の先には、あの老婆がいたのだ。歩くときに地面についていた杖先を真っ直ぐククーシュカの方へ向けている。
だが、老婆はククーシュカと目が合うと、何かに驚いたようになり眉を寄せた。
「私はブルゼイ族のお姫様……? ツェツィーリア? いや、じゃあ目の前のあれは?
真珠のように輝く白い肌と、砂漠の宝石とも言われるシトリンの目を持ち、雪の積もった氷河のような髪色。間違いなくブルゼイ族。では私は……?」
足下がふらつき、ついには杖が手から落ちた。額を押さえたまま跪き、今にも倒れてしまいそうだ。
しかし、今度は氷塊がククーシュカの腹部に命中して、彼女はぐっとうめき声を上げながら飛ばされた。
すぐさまアニエスが俺の肩を抱き上げ起こし、そして老婆に近づき抱きかかえた。
「今ですよ! 走れますか!?」
アニエスは俺に叫んだ。足に痛みは残るが、なんとか走れそうだ。
大きくうなずくとアニエスは走り出し、俺もそれについて行った。
「私はブルゼイ族では無い……。では、誰だ?」
アニエスに追いつくと、抱きかかえられた老婆は額に脂汗を浮かべ青い目をぎょろぎょろと動かし何かをブツブツとつぶやいていた。
三人で村の中心部、まだ人の灯りのあるところまで逃げてきた。
さすがのククーシュカも人目のあるところで凶行には及ばないだろう。そう思いながら、村の中心部の広場で足を止めた。
肩で切れた息をするたびに肺から鉄の臭いがする。汗だくになりながら膝に手をついた。
アニエスも老婆を下ろし、近くのベンチに座らせ息を整えている。
すると、突然老婆は首や指につけていた宝石をブチブチと引き剥がし始めた。裂けて飛び散る宝石の裏側は無機質な石ころのようで、色つきのガラスを蛍石に貼り付けただけの偽物のアクセサリーのようだ。
「あの正統ブルゼイ族の小娘は何だい? なぜあんたらは追われているんだい?」
「どうしたんですか? ブルゼイ族のお姫様じゃ無くなったんですか?」
「黙んな。ああ……。思い出したよ。私はお姫様でもなければブルゼイ族なんかでもない。ただの歴史学者だ。雷鳴系の魔法も使える」と杖を持ち上げて撫でて土を払った。
杖は持ち主の帰還を待ちわびていたかのように艶を取り戻し、小さくついていた飾りのカエデの葉が大きくなり赤くなった。
「名前、覚えていますか?」
「エルメン、ガルト……」
と額に手を当て、目を強くつぶりながらブツブツと口元を動かし始めた。額に汗を浮かべながら必死になり遠い記憶を呼び戻しているようだ。
「エルメンガルト・シュテール……だ。エルメンガルト・コー……コーザグシヒト・プロフ・シュテール。……名前は思い出せたか。だが、まだ思い出せることも飛び飛びで曖昧だね」
と言うと以前吸っていたタバコを取り出した。
「ありゃ、ライター落としちまったよ。火、貸しておくれ」
ライターなど持っていない。杖を前に差し出した。老婆はちらりと俺を見上げると咥えたまま顎を前に突き出したので、俺は杖先に小さな火を出した。
何も言わずに火のついたタバコを大きく吸い込むと、顔中の皺を一斉に深くして咳き込み始めた。
「反吐が出るほどまずいタバコだね。よくこんなののんでたもんだよ。嫌な正気の戻り方だよ。全く。だが、何故ブルゼイ族なんかに追われてんだい?」
「ブルゼイ族……。ククーシュカちゃん、さっき襲ってきた女の子はやっぱりブルゼイ族なんですか?」
「アニエス、さっき言いかけたんだけど、たぶんそうなんだ。俺もはっきり知っていたわけじゃ無いんだけど、ククーシュカはブルゼイ族だ」
これまで度々出てきた話やククーシュカの様子を見ている限り、さすがに彼女がブルゼイ族であることには気がついていた。
女神がずっと昔に俺に言った物で最後に残る一つ“詛血の一族”はアニエスということになるが、それはまた別の話だ。
「そうなんですか……。よく知らないのですが、スヴェンニーより過激な戦闘民族だったとか」
「そういえば、二人とも僧侶だなんてのは嘘だろ?
そもそも僧侶なんて呼び方もまだ往生際悪く宗教を残しておきたい教皇領のアホどもが残した立場名だ。治療魔法が使えれば誰でも神の使いのクソ坊主に仲間入りさ。
女のほう、あんたさん魔法使いだろ。どこの出身だい?」
「私はブルンベイクです」
「地元なんかどうでも良いんだよ。どこの学校だい?」
「エノレアです」
「そうかい。道理でお金持ちのお嬢ちゃんっぽいわけだ」
「エルメンガルトさんはどこなのですか?」
「私はあんたと同じ三大校の、教育が強い二校のもう一つさ。
エイプルトンの歴史学教室でブルゼイ史を研究してた。卒業してから歴史研究に没頭して教室長にもなったさ。
ガキどもにはバカに単位はやらんって言ってたんだが、エル先生とか勝手に呼んでまとわりついてきて鬱陶しかったさね」
味が無いと言っていたはずのタバコを再び咥えると、肺に満たすように大きく吸い込んだ。