逃避行 第十八話
突然押し倒され驚いているアニエスの顔は、俺とアニエスの間を通過していく緑色の短剣で遮られ見えなくなった。
短剣は夜に瞬く僅かな灯りを照り返し、虹色に光りながら二人の間を通り過ぎていく。
アニエスが尻餅をつくよりも早く、短剣が飛んできた方を振り返るとそこには、真珠のように輝く白い肌と砂漠の宝石とも言われるシトリンの目を持ち雪の積もった氷河のような髪色のよく知っている女が立っていたのだ。
「アニエス! 大丈夫か!?」
少し先の道に転がるサモセクには血はついておらず、乾いた砂の上にも血痕はない。アニエスが避けたのは確かに見えていたが、心配になり声をかけた。
返事はないが、俺の真横ですぐに立ち上がり杖を前に構えてすでに戦闘態勢に入っている。遅れながら俺もアニエスに物理防御魔法を展開した。
「イズミさん、ここは無人とはいえ村中です。それに無関係なツェツィーリアさんもいます。今回はすぐに逃げましょう」
ククーシュカがアニエスの言葉の何かに反応したのか、刹那に大きく開眼した。だが、視線は鋭くなり、今度はキンジャールを持ち出してきた。
「とりあえず村の外に出よう! 俺を挟んで対角線の位置で距離をとって走れ! 移動魔法と高速移動はできる限り使うな!」
足下に落ちているサモセクをククーシュカとは反対方向に蹴って避けた。アニエスを相手にしている際には、アニエス自身がククーシュカに近づくか、気づかれないようにしなければ距離を詰めることはできない。
その点において、力強く投げれば絶対に当たるというこのナイフを死角から投げれば当てられるので、これ頼るのは間違いない。拾わせるまでに時間を少しでもかからせるためだ。
ククーシュカは俺を狙わない。だから、アニエスの死角を塞ぐ目になればいい。駆けだしたアニエスの背後を隠すようにしながら後を追いかけて走り出した。
しかし、俺は読みが甘かった。
走りながら背後の様子をうかがうと、ククーシュカの姿はすでに無かった。しまった、追い越されたか、と思う間もなく、下に白い丸い物が見えると何かに躓き、道に倒れ込んだ。
受け身を取れずに胸部と腹部を思い切り打ち付けてしまい、呼吸が乱れ、すぐに体勢を整えられなくなってしまった。
口の中に砂のじゃりじゃりとした歯ごたえを覚え、急な衝撃にゴホゴホと咳き込んでいるとずるりと左足を引きずられた。
「イズミさん!」
砂埃の立つ視界に見えたアニエスがこちらを振り返り名前を呼んでいる。
振り向くな、走れ、と声を上げたかったが、喉に絡む砂と引き摺られる勢いに言葉は殺されてしまった。
足を引きずる者の方へ視線を向けると、
「あなたたちを追いかけている間に気づいたことがあるの」
と背中越しにククーシュカがそう言った。
左足の踵の関節を逆方向に曲げて押さえつけられ、身動きがとれない。
「別に赤い女を殺さなくてもいいってことに。あなたを攫えばいいのだから」
体を返そうにも杖が地面に引っかかってしまった。
「誰かを殺してあなたが傷つくなら、誰も殺さないであなただけを傷つければ良い。
人間は距離が近ければ近いほどお互いを無意識に傷つけるんでしょう?
私とあなた、攫えば距離は近くなる。そうなるとお互いが近くなって傷つけ合う。
ならば私はあなたを今この瞬間、たった一度だけ傷つけて、その後は、私があなたにたくさん傷つけられれば良い。私はあなたを絶対に傷つけない。否定しない。拒否しない」
ククーシュカは引きずるのをやめると立ち止まった。
「そのたった一度の傷つける行為で私はあなたの足を落とすの。あなたは足が使えなくてもいい」
抱えたままの踵をぐっと持ち上げ、ゆっくりと背中側に押し始めた。
「私が足になればいいのだから」
左足の内腿から脹ら脛、そして踵に駆けてしびれるような激痛が走る。鋭い胃痛みのあまり、声も出せなくなった。
「あなたの代わりに大地を踏みしめる。行きたいところへも連れて行く」
痛みに白む視界の中でアニエスが杖を構えていた。
「無駄よ。あなたの超時間移動は私には効かない。
そして、得意な関節技をかけるには一度魔法を解かなければいけない。そのわずかな一瞬でも逃さないわ。解いた瞬間に足を切り落とす。どちらにしても足を切り落とすわ。そこで黙ってみてなさい」
と見せびらかすようにコートからキンジャールを取り出した。
「そんな! 足なんて大きな血管があります! 切ったら死んでしまいます! 放しなさい!」
「大丈夫よ。愛しいこの人がくれた治癒魔法の込められた魔石で傷はすぐふさいであげるわ」
キンジャールが高く掲げられると、鋭い鋼の震える音がした。
「残念だけど、痛くしないことはできないわ。痛みは生の証明書。人体って言うのはそういうもの。
でも、傷つけるのはこれで最後。私の一生のうちで、あなたを傷つけるすべての痛み。それに、あとでその何倍も気持ちよくしてあげる」
ククーシュカは笑っている。
「私ね、テレーズから色々教わったの。
即死させる方法、死にたくなるような甚振り方、心の壊し方も。
もちろん、男を満足させるありとあらゆる手立ても。だから、期待していてね」
初めて間近で見る笑顔だ。満たされる様な、孤独から解放されるのを待ちに待ったかのように、不気味に悲しい笑顔だ。
ククーシュカの肩がピクリと動いた。もう間に合わない。俺の足は無くなる。
せめてさっくり一撃で切ってくれ。
閉じていく視界の中で振り下ろされたキンジャールがみるみる近づいてくる。
だが、足の付け根に切っ先が触れるそのときだ。
ククーシュカの手に黄色い閃光がぶつかり、足から手が離れた。
自由になり這うように距離を取ると、キンジャールが煙上げて高く飛び上がり宙でくるくると回っているのが見えた。