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逃避行 第十五話

 火傷、擦り傷、捻挫、打撲……。大したことの無いものばかりだったが、珍しく治療を受けに来る人が多い日だった。


 治療が終わったのはいつもよりも暗い時間になってしまい、老婆のもとへ食事を届けに行くのもだいぶ遅れてしまったので二人そろって彼女の元を訪れることになった。

 家のドアをノックすると、相変わらずぐしゃぐしゃな姿の老婆が眉間に皺を寄せて出てきた。


「遅いよ! 年老いて体の弱ったご主人様を餓死させる気かい!」


「すみません。治療が長引いたもので」と言うと、フン、と鼻を鳴らした。

 たまたまその日は自分たちの食事も一緒に運んでいた。それをチラチラと見た老婆は何を思ったのか、「入りな」とドアを大きく開けて中へと導いた。


 臭いにはすっかり慣れてしまい、今では何も感じない。だが、その当人が住んでいる家とは一体どれほどなものか。(もちろん、衛生面で)不安に駆られながらも断ることができず、二人で中へと入っていった。


 蝶番の外れたドアが斜めに開くと、床の木材にぶつかり開けづらい。これまでの開閉のせいで床には綺麗な半円を描く傷ができている。

 家の中は薄暗く、老婆は入ると同時に照明をつけた。ぼんやりと温かみのある暖色の灯りが緩やかに広がり、家の中を照らし始めた。

 そこはまるでゴミが迫ってくるようなゴミ屋敷……ではなかったのだ。

 其処彼処どこを見ても分厚い本が積まれている。本以外にベッドと椅子しかない。いや、それ以外は本で埋め尽くされているのだ。

 崩れた本の大地の上にまた新しく本が積まれて塔のようになっている。それぞれの本にはドッグイヤーや付箋が何カ所もされて、どれも読み込まれくたびれてボロボロになっている。



 老婆が杖をドアの脇に置き、部屋の隅に向かうと「高貴な女性の家の中をあんまキョロキョロ見るんじゃないよ、失礼なヤツだね」とそこに積まれていた何十冊もの本を思い切りどかした。

 何十冊もの本が一斉に動き出し床にドサドサと散らばると、積もっていた埃は何年かぶりに飛び立ち、床に落ちた本が開くと歴史を感じる黄ばんだページの間から埃と乾いて粉々になった紙魚の死骸が飛び散った。

 むせ返るほどもくもくと上がる埃の臭いが収まり視界が晴れていくと、その本の下からケルティック模様のクロスが顔を出した。よく見ればそれはダイニングテーブルだったのだ。


「どうせ床で食べてんだろ? みっともないったらありゃしない。あんたたちもここで食べてきな」


 さらに本を数冊どかすと、椅子が四つほど出てきた。一つは足が折れており、他もだいぶボロボロだが、なんとか食事くらいならできそうだった。

 だが、テーブルは埃だらけでアニエスはそこに食事をあまり置きたくないようで、持っていたハンカチを魔法で湿らせてテーブルをさっと拭いた。老婆はそれを見て何故か嫌そうに鼻を曲げていた。


 テーブルの上に食事が並ぶと、いつもよりも豪華に見えた。早雪で節約している中での料理で量も少なく、色味も薄いのだがそれでも贅沢をしているような気分になった。



 これまでの付き合いといえば、思い起こせば初対面の時以降は食事を運ぶだけでありほとんど無い。

 毎日同じ時間に顔を必ず合わせるので長い親交があったように錯覚していたが、これまでに個人的な話を込み入ってしたことは無く、実は俺たちは初対面に近いことに気がついた。

 意識するほどに緊張感に包まれ、張り詰めた静かな食事が始まった。


 俺もアニエスとは迂闊に話せずしばし無言のまま食器の音だけを立てていると、老婆がポケットとからちりちりになった細い紙の筒を取り出し口に咥えだした。どうやらタバコのようだ。

 どこかに落ちていて湿気てしまい軟らかくなってしまった物を再び乾かし手頃な紙で巻いたのか、ぐにゃぐにゃと折れ曲がっている。まだ食事中だがタバコを飲み始めようとしている。

 お姫様という割にあまり行儀がいいとはいえないが、火をつけてあげようとして杖を顔から少し離れたところに差し出した。その杖先を一顧すると、


「なんだい? タバコはあげないよ。あんたらには贅沢だ」


 と目を閉じて体を背けた。


「火はいらないんですか?」と尋ねると動きが止まった。フンと鼻を鳴らすと、


「私はね、魔法過敏症なんだよ。二度と使わないでおくれ! 忌々しい!」


 というと爪の伸びきった手で杖先をぐっと押し戻し、代わりにポケットから魔石の込められたライターを取り出して火をつけた。

 あれ? 魔石ライター? それにこの間の治癒魔法は? 思わずアニエスと顔を見合わせてしまった。


 大きく吸い込んだ後に吐き出された白い煙は、タバコの香りなどほとんどしないような、文字通りただの煙だ。紙が燃えるときに出る煤や灰を吸っているようで、タバコ以上に体に悪そうである。

 一口吸った後に手をテーブルに下ろし、人差し指と中指で挟んでいるタバコを親指で動かすと、あっという間に燃え尽きた赤い触覚を持つ毛虫のような灰がテーブルの上にぼとりと落ちて崩れた。

 火事になるのではないかとアニエスが全身をびくりと動かして慌てている。


「あんたら何者なんだい?」


 彼女にとっては慣れ親しんだ煙を吸って落ち着いたのか、頬杖をつきながら上唇からウサギのように歯を見せてそう尋ねてきたので、俺たちも一度食事の手を止めスプーンを置いた。

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