逃避行 第十三話
輪郭のはっきりしない太陽を右手に、俺たちは村の北東エリアに向かった。
歩いて五分もしないうちにパンか何かの焼けるような香ばしい匂いや食器のこすれる生活音はしなくなった。
その代わりに、やがて石に溝を刻むであろう絶え間ない等間隔の水滴や、長い時間の中で廃墟が風化して崩れていく音だけに変わり、そこが無人であることを肌に伝えてくる。
辺りの様子も変わり始めて、住人がいなくなってからだいぶ時間が経過してすっかりボロボロになってしまった柱と壁の一部しか残っていないような建物から、つい最近まで誰かが住んでいたかのようにきれいな家もある。
このような比較的きれいな廃屋には必ず浮浪者が住み着くのだが、ここは本当に無人のようだ。
人の気配が全くなく自然に還っていく音だけが響き、ラド・デル・マルのスラムのように静寂の中に殺されている呼吸と鼓動の音が潜んでいる空間とは違った不気味さがある。
「どこでもいいって言われると、逆に悩ましいね」
「そうですね。でも、せっかくだしちょっときれいなところに入りましょう。少なくとも隙間風の入らない家とか」
雨風をしのげて安心できる場所を求める気持ちが強く、多少の不気味さなど二の次でほんの少しのわくわくとした期待感さえ感じている。隣を歩くアニエスも足取りが軽い。
今の自分たちに最も理想的な物件を探してキョロキョロと見回しながら歩いていると、
「コルァァ待ちなぁ! 誰だいぃぁあんたたちぁ!?」
と突然後ろから大自然に還りつつある廃墟の囁きを切り裂くような甲高い声が聞こえた。
時折掠れて裏返るその声は音節と音節が混じり合ってしまってはっきりせず何を言っているのか聞き取れることができず、理解するまでに時間がかかってしまった。
戸惑いながら声の方へと振り返るとそこには白髪の老婆が立っていた。
年は60くらいだろうか。髪は真っ白で長いが、その長さのせいで傷んでいるのが余計に目立つ。傾斜の全くないほとんど垂直なかぎ鼻を膨らませ、ギラギラ光る青い目で俺たちをにらみつけていた。
足が悪いのか、土で汚れきった杖をつきながら倒れそうに、それでいて素早いしゃかしゃかとカマキリのような動きで近づいてきた。
よく見ると、その女性の首には緑色の宝石のネックレス、指という指には色とりどりの指輪、痩せ細った腕には金の腕輪を填めている。
着ている服はぼろぼろだが、生地は上質でかつては上品に仕立て上げられていたのが見て取れる。目の前まで来ると額に青筋を立てて杖を振り上げてきた。
だが、殴られてしまうことよりも、衛生状態がかなりよくないのか汗と埃が混じったような強烈な臭いに鼻がよじれてしまい身をかがめてしまった。
「出て行けェェェ! この泥棒どもめ! 私の財宝は誰にも渡さないよ!」
どこか独特な巻き舌のような話し方で俺たちをまくし立てている。
そうしているうちにアニエスの方へ高く持ち上がった杖先が向かったので、かばうように背中を向けて立ちはだかった。
杖で背中をばしばしと叩かれるが、力がないようで叩いたところから横に流れてしまい、それがどうしてもくすぐったい。
「村長さんから聞いてませんか? しばらくこの辺りの空き家を借りてそこで住まわせてもらう予定なんですが」
痛みは無いがとんとんとあたる尖った杖先から守るように目を細めて尋ねると、背中を這う感覚は無くなった。
「なんだ! あんたらか! ふん! 確かに男と女のペアだね! 先に言いな、全く」
どうやら話は通っていたようで、勢いは衰えずに怒鳴りながら杖を下ろした。村長が彼女に住む権利を与えたのは、単に浮浪者避けという理由だけではなさそうだ。出て行ってくれなどと簡単には言えないのもあるのは間違いない。
「じゃあんたたちの住む場所は私が決めるよ! 文句はないね! 私はお姫様なんだから!」
自称お姫様こと老婆は杖を地面に大きくたたき付けるときびすを返し歩き出した。
それがついてこいと言う意味なのか混乱しつつとりあえずついていくと、村の外れの放棄されてさらにだいぶ時間が経ったエリアへとたどり着いた。
一帯の建物はほとんど崩れ去り、村と外の境界を不明瞭にしている。もはや村なのかも怪しいところだ。
老婆はそこで突然立ち止まると、振り返って杖を高く掲げてぶんぶんと振り回した。
「あんたたちの家はここだよ!」
東屋という例えもできないような廃墟が目の前に広がっている。
「家って……。どこにあるんですか?」
まさかとは思いつつも尋ねてしまうと、お姫様はしみと皺だらけの顔を思い切りしかめた。
「これさ! 目の前のこれだよ! 新入りの召使いなんだからこれでも贅沢なんだよ」
召使い? 俺とアニエスは思わず顔をつきあわせてしまった。アニエスも口と目を大きく開けている。
「私の食事は毎食調理するんだよ! いいね! それがおまえたちの仕事だからね。仕事があるだけ感謝しな!」
と目に火花を散らして怒鳴ると背中を向けてどこかへ行こうとした。
それを「あの!」とアニエスが呼び止めたのだ。
アニエスも最近は言うようになってきた。まさか不平不満をぶちまけてしまうのではないだろうか、こういう手合いは突っかかると面倒なことになる、とヒヤヒヤしてしまった。
老婆はキッとアニエスの方へ振り向き、投げかけられる文句に立ち向かわんと厳つい顔をした。
しかし、アニエスは軍服のズボンの左右に手をやり、
「お姫様はお名前は何と仰るのですか? 主の名前がわからないと私たち使用人も困ります。主様の素敵なお名前を教えてください」
とスカートをたくし上げるような上品な仕草をして尋ねたのだ。
老婆は予想だにしなかったアニエスの言葉と仕草に驚き、その顔中の刻まれた皺を伸ばした。だが、突然頭を抱えだしたのだ。そして何か思い悩んだようになりしばらくうなり続けた後、
「……ツェツィーリア」と思い出したように囁いた。すぐさまはったと顔を上げると、
「私はツェツィーリア・ブルゼイ! 始まりの五大工の一族、ブルゼイ族のお姫様だ!」
と自信に溢れた声を上げたのだ。
しかしすぐさま背中を向けるとどこかへ立ち去ってしまった。