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逃避行 第九話

 ククーシュカは攻撃が効いていないことに驚いているアニエスを冷たく見下ろし、左脇腹の杖を掴もうとするそぶりを見せながら、右手のキンジャールを逆手に持ち替えて自らの脇の下を通して左脇腹へと振るった。

 すぐにフェイントであることに気がついたアニエスは後ろに飛び退いたが、つぅっ、と悲鳴を上げた。頬から血が流れている。


「私のコート、あなたの魔法と同じ物でできているから多分効かないのね。どれだけ素早く杖で触れても私には意味がないわ」


 肩で息をするアニエスは「それはどうかしら」と言いながら血をぐっと拭うと杖を高く掲げた。

 そして振り下ろす様な動作をしたかと思うと、突然「パス!」と叫び、ククーシュカの方へと杖を投げた。回転する杖は弧を描き、ククーシュカの頭上へと向かっていった。


 ふと地面を見ると、アニエスはまたしても姿を消している。フェイントだという事にククーシュカも気がついており、飛んでくる杖には手を伸ばしていない。


 ククーシュカが飛んでくる杖を交わすために体を右に半歩ほど動いた。


 杖が彼女の横を通過したその直後、アニエスは通り過ぎた杖と入れ替わるようにククーシュカ背後に現れて、右に動くククーシュカの左手を持ち上げた。そして、


「魔法が効かないなら」


 足の間に入り込み右足をククーシュカの左足に巻き付け、


「力がダメなら」


 さらに右脇下に入り込み右ひざ下で上体を横にしたククーシュカの首を抑えたのだ。


「関節技しかないのです!」


 杖の転がる音がするとしめ縄が強く引かれるような、肉と肉がふれあい腱が強い力で伸ばされる音がした。

 ククーシュカははっと口を開いて、声にならない悲鳴を上げた。関節技はククーシュカには効いているようだ。片目をつぶり歯を食いしばり、苦しそうな顔をしている。

 ぎりぎりと力を込めながら、アニエスは口を開いた。


「イズミさん……、私は何にも思って……、いえ、あなたのことを拒否なんてしません。でも……」


 ククーシュカは左足に巻き付ているアニエスの右足と自分の足の間に挟まったスカートを滑らせ、力を込めて引きはがそうとした。抜けられると察したアニエスもすぐさま離れた。

 ククーシュカは攻撃を再開すべく、左片足で三歩ほど下がる同時にコートから緑色の短剣、サモセクを持ち出して後退する勢いを利用して間髪入れずに投げてきた。

 しかし、手から離れたそれが届くよりも早くアニエスはまたしても姿を消していた。


 どれだけ狙いが正しかろうと、どれほど視力を鍛えようとも目では決して追えぬほどに素早く動くアニエスにはそれは意味をなさないのだ。

 飛んでいたサモセクは時空を越えた動きをする対象に混乱し、樹海の方位磁針のように切っ先はくるくると回った後ピタリと止まり、繰り返す方向転換により空を切って飛ぶための速度を失って雪の上に落ちていった。

 切っ先が足跡で踏み固められた雪の上に落ちるよりも早くアニエスはククーシュカの目の前に現れた。

 そして、襟をつかむと上げられたままの脇の下に足を入れ、反対の足で首を刈ると右腕に巻き付き、そのまま回転してククーシュカを倒した。さらに右腕を抑え込むとククーシュカは苦悶の表情を見せている。


「ごめんなさい!」


 とアニエスが目をつぶり大声で謝るとククーシュカの肩から鈍い音がした。


 すると、あまり苦悶の声を上げたことのないククーシュカが呻るように叫んだのだ。

 叫び声が雪の森に静かに吸い込まれると、サモセクが雪の上にさくりと落ちる音がした。


「肩の関節を外しました。しばらく右手で物は持てないはず。武器頼りのあなたでは何もできない。ごめんなさい」


 目をつぶるとゆっくりと、伸びきったククーシュカの腕を離し、立ち上がった。


「私はこの人から離れません。確かに少し怖いと思うことも嫌だなと思うところもあります。

 でも、私を庇ってくれます。傍にいてくれます。温かい手で触れれば、優しい言葉を交わせば、それだけが目的じゃないって、わかります。

 だから、この人がどう思おうと、この人にどう扱われようと、どこまでも付いていきます」


 と言うとシャツの胸のあたりを拳で軽く摘まんだ。それはこの世界にきたときから着ていた生地の緩くなったオリジナルのシャツだ。


「ククーシュカちゃん、なぜこの人を独り占めしようとするんですか?」


「あなたには関係ない。何もかも、すべて持っているあなたに、私の一体何がわかるの?」


「残念だけどわからないです。

 でも、私とあなた、この二人にはわかっていることがあるの。この人は、イズミさんはひどい扱いなんて決してしないってこと。

 だからあなたも追いかけてきているんです。でも、誰かを傷つけてまで手に入れようなことは、イズミさんを傷つけてしまうことと同じです」


 ククーシュカは左手で起き上がろうとしたが、バランスを崩し雪の中に倒れた。それでも再び体を左手で起こし立ち上がると、左右に足を開きつま先を内股にしてバランスを取っている。

 前屈みになり関節の外れた右手はだらりと地面に垂直に垂れて、ふらつく体に遅れて振り子のようになっている。片目をつぶり、額には脂汗が浮かぶククーシュカはとても痛そうだ。

 その姿を見てアニエスは下唇を噛んでいる。

 歯を食いしばり何かをこらえるようにしながら傍へやってくると、「行きましょう。イズミさん」と目を伏せたまま囁いた。



 結局、最後まで俺は二人を見守ることしかできなかった。

 ククーシュカと目があうと、目尻は下がり、奥歯を噛みしめ、高い鼻筋の脇を脂汗が流れた。

 辛そうに肩で息をすると白い息が上がる。彼女の痛々しい姿から、ただの痛みによるものではない悲壮感が漂ってくるのだ。

 その姿はあまりにも哀れでとても見ていられないものだったが、目を離せなくなってしまった。


「どうして、逃げるの? 私は一人にするの?」


 震える左手で重い袋のように垂れさがる右手を抑えながら尋ねてきた。



「ごめん」



 放っては置けない。だが、ここですぐに治せばまたアニエスを襲う。

 だから、そんな顔をされても俺は逃げ続ける。


「理由が何であれ、君が俺自信の体よりも大事なものを傷つけようとするからだ」


 ポケットから空になった埃だらけの魔石を取り出して、強めに治癒魔法を込めて投げると、ククーシュカは挙げられる左手でそれを受け取った。

 バランスを崩して受け身を取りづらそうに雪の中へと倒れてしまった。


「脱臼は関節を嵌めるように捻りながら引っ張れば治るけど、それが必ずしも正解じゃない。治らなければそれを使うんだぞ。

 でも、治っても二、三週間は動かしちゃダメだ。癖が付く。いいな」


 駆け寄り手を差し伸べたい気持ちを抑えて俺たちは森の中へと走り出した。

 振り返ること無く暗い森の中を走り抜けていると、遠くから遠吠えのような音が聞こえた。やや高い音で家に吹き込む強風が鳴らす音のようで悲しく、聞いていられなくなり思わず耳をふさいだ。

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