逃避行 第五話
背後の店の明かりに振り返らずに並んで歩きだし、俺たちは拠点に戻らずそのまま街を後にすることにした。
何もない拠点に着の身着のままで戻ってきて、それからも家具や服や日用品と言った何かが増えることはなかった俺たちにとって、そこへ戻らずに旅立つことは何ら問題はないのだ。
俺たちが前線基地から逃げ出してからひと月近く経過したが、連盟政府と北公(第二スヴェリア公民連邦国)との戦況はどうなっているのか、全くというほどわからない。
事実から目を背け、日付さえ曖昧になるほどに世間を一切を知ろうとしなかったというところは正直ある。だが、知ろうとしたところでその手段が無いので何も変わらないのだ。
もし、新聞の一つでもあれば知ることはできただろう。
だが、いつかウミツバメ亭で聞いた、元勇者たちの立ち上げた新聞社はいまだに存在していない。
どんな形であっても新聞のような物が何かしらの形で出回っていれば、多少は現状を知ることができただろう。
もし仮に、の話だ。
その勇者たちの立ち上げた新聞社があったとしたら、彼らは連盟政府についただろうか。それとも北公についただろうか。もしくは内ゲバを起こしてそれぞれに分裂しているか。
その事業に参加したわけではないので、内部事情を探るだけ無駄なのかもしれない。
「どうするんですか? これから」
しばらく考え事をしていたので、無言になってしまっていた。そこへアニエスがのぞき込むようになり尋ねてきた。
ああ、そうだった。そんなことを気にしたところで逃げ出した俺の知ったところではない。どうでもよくなってしまった国の行く末よりも、自分たちの今日と明日を見なければいけない。
ひとつきほど爛れた生活をしていて暇な時間は山ほどあったが、これからについてなど特に考えてなどいるわけも無く、どうするか、などというのは全くの未定だ。
「どうしようか」
上を向いて顎を手で擦りながらしばらく考えた。
だが、俺は自由になれたのだ。そのしがらみのない悩みさえも何か喜ばしい様な気もするのだ。
さしあたり北公の前線基地を回避するため、これからノルデンヴィズから南東方向へ向かおうか。それにそちらはあまり行ったことがないので知り合いも少ないだろう。
「二人で色んなところに行ってみよう。できるだけ、移動魔法を使わないでね。これまでくだらない争いごとを有利に早く進めるためだけに使ってきた。
でも、もうそんなのはごめんだ。これからは自分たちの使いたいときに使う。そうしよう。今は君との旅路を楽しみたいから使わないだけ。
ユニオンから任務の費用として受け取ったエイン通貨もまだそれなりにある。フォ〇ドV8で逃げまわったり、ボリビアで銀行強盗したりは必要ないさ。
それに俺たちは二人とも魔法が使える。それもとびきり強力なヤツ。それでなんとかなるさ」
親指を立ててアニエスへ笑いかけた。
だが、実際の問題、それはいつまでもと言うわけにはいかないだろう。
笑いかけたが、アニエスは硬い表情のままだ。
「あの……」
少し戸惑うように何かを言おうとしている。
「和平とか? もう知らないよ。好きに殺し合えばいいと思う。
戦争が起きても好きに生きている人たちはいるんだ。俺たちもその一部になるだけ。贅沢言わなければ田舎でこっそり住めるはずだよ。
人間はいずれ死ぬ。それまでの時間をどう過ごすか。君と今こうしていることができるなら、これからも俺はそれを選ぶ」
冷え込む街は息を白くする。一人分の吐息がもくもくと上がった。
「逃げて、逃げて、どこまでも逃げて、戦争も何も知らない、どこか遠くの田舎に落ち着こうよ。
どこまでも連なる石垣と草原があって、広くて高い空に風が吹けば青い大波が立って、それを追いかけも追いかけても石垣と草原しかないようなところ。
ヒツジやヤギを飼って、植物を育てて、石造りの小さな家に住むんだ。農家をしてときどき、本当にときどき、近くにある小さな町へ出かける。
そこで美味しものを買ったり、君のために素敵な服を買ったり、そんな風にしていつまでも過ごしたい。君は付いてきてくれる?」
極めて理想的。だが、口に出して言うほどに、それがどれだけ無責任なことか身に染みるようだ。
俺はまたしても投げ出そうとしているのだ。
自由だと思う瞬間こそ静謐な緑の原は楽園だが、これからどうなるかを具体的に考え出すとそれは途端に表情を変える。ただの罪悪感に。
やるやるやります、と意気込んで女神と言う上司をさせるだけ期待させた挙句、やっぱりできませんでした、となった。
元勇者たちのクズ行動と同じような、いや、それ以上に質の悪いことをしているのだ。おそらく能力もいずれ無くなるだろう。下手をすれば能力が無くなるだけでは済まず、最悪の場合マイナスになるかもしれない。
だが、それまでは好きにしていいだろう。
俺は白い息を止めた。しばらく間をあけた後、入れ替わるように隣からもくもくと上った。
「素敵なところですね」
そして、アニエスは遠くを見るようなまなざしになると続けた。
「世界は広いから、そんなところもあるかもしれません。それもいいかもしれませんね」
振り始めた雪はすでに地面を白くしている。俺はアニエスの手を握り、足跡を二つ残して街を後にした。続く雪はすぐにそれを消してしまうだろう。