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逃避行 第四話

 笑い声の中でアニエスは愛想笑いをピタリと止め、「ククーシュカちゃん……」とかき消されてしまいそうな声でぼそりと呟いた。


「そういえば、なんでククーシュカちゃんは私たちを狙っているのですか?」


 パスタをつついていたフォークを皿の縁に置くと、俺の目をまっすぐに見つめて尋ねてきた。


「……わからないよ」


 金属と陶器のこすれる小さな音がすると、ほんの一瞬他の客の声がよく聞こえた。

 狙っているのは俺たちではなく、君なのだと言えない。


「でも、今は連盟政府側についているからじゃない? 本人もそう言ってたし」


「私、あの子と戦ってる最中に怪我したんですよね?」


「そうだね。ククーシュカと戦ってるときに君は転んで頭を打って気を失っちゃったんだよ。それで俺がすぐさま治癒魔法で治したんだ。後遺症は全くないから大丈夫だよ」


 俺は咄嗟に嘯いた。後遺症などあるわけがない。それにアニエスはククーシュカと戦っていない。アニエスだけの時間を戻したのだから。

 彼女は一度無言になった。何か違和感がある事には気がついているのだろう。

 致命傷を受ける前まで戻しきり、ノルデンヴィズで意識が戻った後に自分の杖が血みどろになっていたことを覚えているはずだ。


 両手を丸めてテーブルの上に置くと、口をへの字に曲げた。


「うーん……、なんだか間抜けな退場しちゃったんですね。ごめんなさい」


「いや、そんなことないよ。そのおかげで逃げられたみたいなもんだし」


「じゃあ、結局戦わずに逃げ出せたんですね。よかった。私はあの子は悪い子じゃないと思うんですよ。

 前線基地では……まぁアレですけど、その、攻撃されたからであって。それに、その取り巻きが……、その、色々あるみたいだからだと思います」


 アニエスはククーシュカが悪くないと言うことを俺に説得しようとしているのか、やや早口で手を大きく動かしながら言った。


「ああ……」


 椅子の背もたれに頭を乗せながらため息のように頷いた。

 アニエスはフォークを再び持ち上げると、僅かに残っていたパスタを再び食べ始めた。


 ククーシュカを庇おうとしているこの女を、数日前に俺の目の前で刺し殺そうとしたのはククーシュカだ。

 確かに刺したのはククーシュカ、だが、今目の前にいるアニエスは刺されていない。ならばそれはどちらも同一人物ではないと思いたいが、アニエスにとっては嘘であっても俺の目には真実だ。

 さらにククーシュカは前線基地でほぼ虐殺のようなこともしていた。いろいろな感情が沸き起こるのだが、それでも確かに悪い子ではないのだろうと俺自身も思っている。


「なぁ、アニエス」


 あまり考えこむと混乱してしまいそうだ。今アニエスは少し分離不安気味だが、それも治りつつあるし体は元気だ。それだけでいいだろう。それ以上に何を望むのか。


 鼻から息を吸い込んで、椅子にもたれかかったまま名前を呼んだ。

 最後の一口を運ぶとそれに、なぁに、と言葉には出さずに俺を見て微笑んできた。

 あまりにも優しい笑顔だったので言い出し辛くなってしまったが、「そろそろ旅に出ないか?」と切り出した。するとパスタを飲み込んで少し悲しい顔になった。


「私たち、やっぱりお尋ね者なんですね」


 目をそらすように下を向くとフォークを静かに置き、ナプキンで口を拭いた。


「もう少しいたい?」


 尋ねるとアニエスは顔を上げた。


「いえ、そうではないんです」


 テーブルの淵に両手を小さく握りのせて前のめりになり、「そうではないんですけど、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ寂しいかなって。でも、あなたが出るというなら行きましょうか」と目を細めて笑った。


 無理して笑っているわけではなさそうだ。でも、うれしくて笑っているわけではないのはわかる。

 ここは思い出の街でもあるのだろう。故郷ブルンベイクを無くして、さらにここをも離れざるを得ない、そしてもう二度と戻れないかもしれないというのは寂しいのだろう。

 彼女のその気持ちを思うと俺もちょっとだけ悲しくなった。


「女将さん、お勘定いいですか?」


 アニエスが残りを食べ終わり、しばらくしてから俺たちは店を後にすることにした。

 カウンター越しに女将さんに呼びかけ、いくらかのエイン通貨をテーブルに置いた。


「もう行くのかい?」


 出てきてテーブルの上の通貨をポケットに入れると、皿を片付け始めた。


「そろそろ俺たちもまた旅に出ます」


「そうかい」と目を合わさずにテーブルを拭いた。


「寂しくなるね。またノルデンヴィズに寄ったらおいでよ」


「なんだ。忙しい奴らだなぁ、お前も」


 カウンターのひげ面の男はグラスを口の手前で止めて寂しそうにそう言うと、ため息をした。

 これ以上居ると名残惜しくなりそうなのだ。それに空気も湿っぽくしてしまうのは申し訳がない。早めに出てしまおうと、俺はアニエスの顔を伺った後に入り口へと向かって歩き出した。

 しかし、置かれた通貨を取り出して掌の上で人差し指で弾くように数えていた女将が俺を呼び止めたのだ。


「あんたたち、ちょっと多すぎるよ」


 振り向くと二、三枚の金貨を掌の上に置いてこちらへと差し向けている。


「彼のツケの足しにしてください。楽しいところでしたよ。ありがとうございました」


「マジか、お前最高だな! よーし、みんな、今日はおれのおごりだ! パーッと飲め!」


「バカ言ってんじゃないよ! またツケを増やす気かい?」と女将は髭面男の後頭部を思い切りひっぱたいた。

 それに続いた笑い声を背中に受けながら色めき立つ店から出ると、窓から漏れる灯りに雪がオレンジに染まり、楽しげに騒ぐ職人たちの影がその中を盛んに動いている。


 いつの間にか雪が降りだしていたようだ。音を吸い込む雪のせいで店のドアが閉まると、眼前の路地は人通りもなく無音の世界になっていた。

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