逃避行 第二話
アニエスは少し分離不安気味なのだろうか。何をするでも常に俺の隣から離れることはなかった。
少し離れたり、物陰に入ったりするとすぐに俺の名前を不安そうに呼び、所在を確かめようとする。
そして隣に座り肩を抱きしめると、その腕の中に潜り込むように抱きついてくるのだ。
本人もその自覚はあるのだろう。克服しようとしている様子は見られる。だが、無理はさせまいと俺も離れないように心掛けた。
次第に怠惰な生活に慣れて持て余す時間ができると、それぞれの過ごし方をし始めた。
ある昼下がり、たまに訪れる晴れの日差しを浴びながらベッドに寝転がり本を読んでいると、アニエスは棚にあった布の残りか何かを取り出した。そして、ベッドに腰かけて背中にぴったりとくっつけながらもぞもぞと何かを始めたのだ。
首だけを動かしてちらりと彼女の方を見ると、裁縫を始めたようで彼女は俺が着ていたシャツをせっせと複製していた。
彼女は鼻歌を歌いながら裁縫に夢中になっていたので、特に話しかけはせずにいた。気が付かないうちに俺は居眠りをしていた。
彼女の歌っていた鼻歌は“白い山の歌”で、心地よかったことはよく覚えている。
それから数日後の朝、目が覚めて服を着るとこれまで着ていたシャツと肌触りが違うことに気が付いた。
人差し指と親指でつまみ擦るように確かめると、繰り返す洗濯で薄くなっていた生地は起き上がり、分厚く新しい生地のゴワゴワとした心地よい抵抗感が指に伝った。
アニエスに何かしたのか尋ねようと着替え途中の彼女の方を振り向くと、彼女も同じ作りのシャツを着ていた。しかし、彼女の羽織っていたそれは複製した新しいものではなく、これまで俺が着ていたものだった。
どうしてかと尋ねると、着ていたものがボロボロだったから複製して新しく作ったものを俺に着せたいらしい。
視線を泳がせ、詰まりながらそう答えた彼女には他の理由がありそうな気がしたが、深く追及するのは意地悪な気がするのでしなかった。
シャツは遙か昔に下北沢の駅前の量販店で買った安物だが、こちらに来てからも着やすさ故に気に入っていた。
もともとの物は男性向けに作られているので、華奢な肩のアニエスが着ると、袖はあまってしまい、袖口を握ろうとする細い指先とピンクの爪だけを袖からチラつかせる。
さらに胸のあたりの布地面積は足りておらず、一番上まで無理やりボタンを閉じてしまうとボタンとボタンの間がひし形に突っ張ってしまう。
三番目か四番目くらいまで外さなければとても窮屈そうだ。だが、そうするとその白くてたおやかな、それでいて情熱的で豊かさ故に仕舞い切れない深い渓谷とそこに至るなだらかな隆線の間にある、誰も知らない一つの小さなほくろが今すぐにでも力づくで解き放ってほしいと苦し気に俺を一心に見つめてくる。
だから、家の中で着るのは良いが外では他の物を着るかそれとも上着を首までぴったり閉めるかにするように念押しした。
ボタンたちは元の持ち主の手によってたびたび服から弾かれる目に遭い、そして彼女も何度も彼らを縫い付けなおすことになるとは思っていなかったようだ。それでも律義に彼女は付け直している。
シャツの一件で変わったことがあった。
それ以降、少しだけ彼女が俺から離れることができるようになったのだ。ときどき拒否されることもあった。
それは少しだけ残念だった。
「イズミさん……、ひどい傷だらけ。いつみても痛そう」
と背中に素肌を合わせると、右手いっぱいに広がった火傷の瘢痕、左肩にできた弾痕、いつできたかわからないようなあちこちの小さな傷跡を細い指でなぞった。
熱く湿った細い指先がろうそくの薄明かりの中で肌を伝うと、背筋を伝うようにぞくぞくとした感触が走った。首筋から肩へと流れた手を包み込むようにつかむと、少し冷たくなっていた。
思い起こせばこの数年でそれまで味わったこともないような怪我を幾度となくしてきた。それでも当初の目標は果たせず、ただ無駄に傷つき傷つけただけだった。
何の意味も残っていないこれは、ただ消えないだけの傷痕でしかない。
「忘れないために、なんて恰好つけようとしたけど、結局何にもならなかったよ。回復魔法で消し、治しちゃえばよかった。記憶と一緒にさ」
「でも、治しちゃったら私との思い出も消えちゃうんじゃないの?」
肩に顔を近づけると、荒くなった吐息が左肩に触れる。
「杖でぶん殴られた思い出もね」
「イヂワル……」
吐息は熱く湿っていて、まるで赤い小さな舌がそこを這い、てらてらと光る唾液のトレイルを残したのではないかと錯覚するほどだ。
彼女の方へ振り向いて目を合わせると、はっと息をのみ逸らす様に伏し目がちになった。
そのしぐさのすべてが我慢できないほどに愛おしくなり、「消すわけにはいかないね」と彼女を押し倒す様に横たえて灯りを消した。
胸の前でクロスさせた両手を見つめると、アニエスはほんの少しだけ残ってしまった左手に受けた魔法の傷を気にしているのか、右手で擦り隠す様な仕草を見せた。
俺は手をそっと右手をのけて、左手の瘢痕を晒しそこへ口づけをした。そのまま胸に顔をうずめ、「消さない理由がいま、できたよ」と言いながら覆いかぶさった。
まだ慣れていないのか、少しばかり不安そうに笑う顔が薄暗がりの中にぼんやりと見えた。