逃避行 第一話
久しぶりに晴れた朝だった。
早雪と噴火で外は真冬のように寒いが、順調に季節が進んでいればまだ真冬ではなく秋口だ。瞼の裏には早い朝日が差し込んでいる。
雪と泥で濡れた二人分の服は床に脱ぎ散らかされたままで、湿った埃のような濃い黴た匂いを充満させている。
離れたベッドの上にいるはずなのに、香ばしいそれは目覚めの直前の鼻の奥に微かに漂ってきた。
花や食べ物のような良い匂いではないが、昨夜の事後の倦怠感を思い起こすそれはどこか悪いものではなく、体をよじりそこに身を沈めていたいとすら思った。
起きて間もない体を僅かに動かそうとすると、体の側面の温かさが自分の物ではないことに気がついた。
目を開けると真っ赤な髪の毛の中にいた。さらに体を動かすとそれはくすぐったくまとわりついてきて、久しぶりの弱い朝陽を受けて赤からオレンジに綺麗に輝いている。
頬や肩に絡みついた赤い髪の迷路から抜け出し、起き上がろうとしたら左腕の上の重さに一度動きが止まった。
腕の先を見ると白い肩が小さく上下に動き、息をしている。起こさないよう静かに腕を枕と入れ替えて、ベッドを出た。
ベッドの上にいっぱいに広がったアニエスの長い髪がカーテンを閉じていなかった窓からの光を受けていたのだ。舞い上がり光る埃の先で輝くそれはどこか幻想的だった。
部屋は寒かったが、レオミュール度の温度計は12度だ。もっと冷えていてもおかしくないが、部屋の真ん中辺りに投げ捨てられたように転がっていた杖から熱が放たれていたようだ。
弱い日差しの作りだすぬるい陽だまりの幾何反射を乱して抜け、埃だらけのキッチンに立った。保存用の戸棚からコーヒー豆を取り出すと湿気た匂いがする。どうやらカビは生えてなさそうだ。
とりあえず二人分淹れると、匂いだけは一丁前にコーヒーだった。
しゅうしゅうと湯が沸く音と古くなったコーヒーの匂いに目が覚めたのか、毛布からはみ出て交差していた左右の白い足首が毛布とシーツの隙間に吸い込まれていった。
まだ体温の残る場所にいるアニエスは大きく毛布を動かした後、体を仰向けにした。そのまま何も言わずに天井を見つめて、二、三度瞬きをしている。
ノルデンヴィズの拠点の天井を彼女は何度も見つめてきいたのだ。自分がどこにいるかはすぐにわかったようだ。
一度頭を起こして外を見ると、再び目をつぶり枕に頭を預けた。ゆっくりと右腕の上腕を額に当てた後、そのままの姿勢で上を見ている。天井よりも先に焦点を当て、何かを思い出しているようだった。
「ごめんなさい」
しばらくするとアニエスは天井を見たまま言った。
何も言わずに首だけを動かして彼女の方を見ると、彼女は「私、昨日取り乱して最悪なことを……」と囁いた。
さて、最悪なことをしたのはどちらだろうか。愛情深い両親がいなくなってしまって取り乱すなと言うのは酷だ。
彼女は俺を執拗に殴り飛ばしたが、俺は俺で欲望に身を任せて彼女を好きなだけ一晩中弄んだ。
こちらこそごめん、などと言うのはかえって情けないだけになる。
何か言う必要は無いだろう。自分のしたことに特に迷いも無い。
手元にあったコーヒーカップが湯気を立てている。
「コーヒー、飲む?」
毛布を右手握りしめ胸元を隠す様に起き上がったアニエスに湯気の立つコーヒーを手渡した。立てた膝と肘で毛布を押さえ直しカップのハンドルを持ち両手で包み込むように受け取った彼女は、少し熱そうにしながら口先を尖らせるようにして縁につけた。
「……まずい」
言葉で口元の湯気が躍り消えると、また新しく湯気を立てている。
半分以上残ったコーヒーは、ベッドサイドテーブルの上にある二つのマグカップの中でそれからゆっくり冷えていった。
その間は二人でベッドの上で無為に過ごした後、時計がないのでわからなかったが薄い日差しが最高潮に至ってしばらくしてからやっとベッドを離れた。
それから泥と汗と水が混じり発酵して、一夜にして驚くほど香ばしくなった脱ぎ散らかしの服を洗った。
まともに絞らずに水も滴る様ないい加減な状態で天井からぶら下げて干し、その真下に凹み錆びた盥と杖を置いて魔法で乾燥させた。
替えの洋服もないので毛布をかぶり二人で体を寄せ合い暖も取った。そして、その日は特に昨夜の一連の事については触れることなく、再び眠りについた。
あくる日も目が覚めたのは昼過ぎだった。
家に食べ物は全く無いので食事は外に出ることになった。だが、顔見知りのいるウミツバメ亭には行かず、あまり行ったことのない街の反対側のはずれに向かった。
依頼を受けて生計を立てている者が多くいる職業会館から遠く離れていて、なおかつこれまで関わりのなかった工芸を生業にしている住人の多い地区にある小さな食堂まで遠出をすることにしたのだ。
そこで食事を簡単に済ませて拠点に戻り、長い夜を過ごした。
追いかけてくる者たちは、まさか俺たち二人が前線基地のすぐそばであるノルデンヴィズにいるなど考えもしなかったのだろう。灯台下暗し。
街にはざわついた気配もなく、ククーシュカの襲撃もカルルの部下やヴァーリの使徒たちの追撃も起こることはない様子なので、俺とアニエスは拠点でどうしようもない日々を送り始めていた。
過ごす夜は夜ごと長くなり、日が昇っても昼過ぎまで眠り続け、食事を済ませるとまたすぐに夜がくる。
来る日も来る日も夜は飽きるまで指を絡めて、起きているときにまともにするのは食事くらいという爛れた日々を繰り返した。