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僕たちの失敗 最終話

 どれくらい荒らしただろうか。彼女特注のイングマール軍服は何もかも真っ黒になり、灰色の上質な生地は毛羽立ちほつれ、泥をまとったドブネズミの毛皮のようになってしまった。


 アニエスはとうとう何も見つけられないことに諦めたのか、隅の方でうずくまってしまっている。

 落ち着いた、というよりもどうしようもなくなったのかと理解した彼女に近づいた。

 頭に降り積もった雪にも構わず、漁り続けた彼女の手は刺すような低温と石やガラスの破片であかぎれと出血で真っ赤になっている。


 正午もだいぶ過ぎて少しばかり気温が上がったのか、雪は湿り気を帯び霙のようになった。

 廃墟に残った屋根や柱のせり出したところから雪解け水がボタボタと滴り、肩や腕に降り注ぐと水の混じった音を立ている。

 水は繊維を通り抜け、コート奥にまで染みてきた。気温の上昇で雪が解け続ければ、やがて濡れ鼠になってしまう。


 きっちりと結われていたはずの赤い髪は緩くほどけぼさぼさになり、泥が付き、それに雪の水が混じっている。水滴の重さから解放された髪の毛の束は、ピンと跳ねた。

 降り注ぐ霙は皮膚の上の泥と混じると黒い滴になり、集まると下へ、そして服の中へ消えていった。アニエスは服の中まで水浸しのはずで、このままでは風邪をひいてしまう。もう放っておくことはできない。


 足音に反応して、体がピクリと動いた。まるで俺が近づいてきたのに反応などしていないのを装うかのように、動いてしまうのを抑えているようだった。

 かける言葉は「風邪をひく」でも「泣くな」でもない。言葉をかければいいというわけでもない。背中を向けている彼女の肩に手を伸ばした。


「……触らないで」と抱えた膝の中でそう言うのが聞こえた。


 触れようとした手が一瞬止まったが、声にも構わずさらに手を伸ばした。


「触らないでください」


 肩に手が触れると、彼女が大きく動き膝の中に顔をうずめて震えだした。

 コートは雪解け水で濡れて冷たくなり、襟からのぞく裏地の起毛はしっとりと倒れてしまっている。体の芯まで冷え切っているのは間違いない。


「触らないでっていってるでしょ!」


 と布を巻いた左手で泥を掴み大きく振り払った。

 飛んできた泥が口に入り、苦さとジャリジャリとした感触で思わず顔を背けてしまった。膝の間から現れたアニエスの頬には、流れたばかりの涙に混じる泥水が伝っていた。

 その後も泥を手でつかみ幾度となく投げつけてきたが、避けてはいけない気がして顔を背けずに目をつぶるだけにした。

 だが、最後に飛んできた握られた拳は除けて手首を軽くつかんだ。怒りと悲しみと突然家族を失った混乱に泣くことさえもしていいのかわからなくなっている彼女をまっすぐに見つめた。


「全部……、全部、あなたのせいよ……」


 下から覗き込んでくるアニエスの真っ赤な瞳も泥で斑になった白い瞼も震えている。掴まれた腕を振り払おうとしているのか、ぐんぐんと力を込めるように動かしている。


「全部、何もかも! あなたが閣下を助けたから、あなたがブルンベイクに来たから、あなたがあの女剣士を逃がしたから、エルフと和平を結んだはずなのに、私の父も母も殺されたのも、人間同士で戦争が起きてるのも全部、全部、全部!」


 自分ではそうではないと思いたかった。だが、今目の前で泣いている女の子を見ていると、言えることは一つだけだ。


「ああ、そうだ」


 例えそのすべてが自分のせいでないと思っていても、否定などする気にはなれなかった。


「戦争が起きたのも、アニエスの両親がいなくなったのも、何もかも、何もかも全部俺のせいだ」と低く穏やかにそう言うと、彼女ははっと息を吸い込んで目を見開いた。

 顔を背けると歯を食いしばり始め、そして掴まれていない左掌を握った。


「ふざけるな! ふざけるな! 全部お前の! 全部! 全部! 全部、お前のせいだ……」と胸板をどんどんと叩き始めた。


 あかぎれ、火傷、小さな傷。手の痛みを堪えながら叩く動きはぎこちない動作で、叩かれる胸腔に響く音は大きく、肺の中で反響するそれは空洞を叩いているように聞こえた。


 和平を目指して突き進んできたはずだ。それなのに戦争は起きてしまい、エルフが相手ではなく、人間同士での殺し合いが起きてしまった。俺はそれを何度も思ってきた。

 ああすればいい、こうすればいい、と考えてはきたものの、結局は大局に流され意志とは反対の方へと流れていく。

 もしかしたら自分は和平を目指すなんて恰好のいいことを言いただけではないのだろうか。本当は和平を目指しているふりをしているだけなのではないだろうか。

 どんどんと胸の空洞を叩く音が全身に響き渡ると、まるで自分のしてきたことなど中身のないことだったと感じるのだ。

 人の死や負傷をどれだけ目の当たりにしても、俺の体の中に何か特別な思いなど満たされてこなかったのだろう。だから、こんなにも空虚な音がしているのだ。


 もう、どうでもいいんじゃないか。


 目をつぶりながら空に顔を向けた。頬や額に冷たい霙が落ちてくる。


 無責任だなんて、言いたければそうすればいい。俺には家族もいない。俺はいなくても、何をしても困るやつはいない。


 何が和平だよ。知ったことか。好きに殺し合えばいい。


 逃げてしまおう。どこまでも、どこまでも。


 好きな生き方をしてどこかで野垂れ死にしてもいいじゃないか。



 俺は掴んでいたアニエスの手首を強く握り、思い切り引き寄せて反対の腕を背中に回して押さえ込んだ。

 アニエスは胸を叩くのを止め、俺を引き剥がそうとコートを思い切りつかんで暴れ出した。つかんでは引っ張り、そのうち剥がれないとわかるとどんどんと強く背中を叩きはじめた。

 だが、俺は構うことなくそのまま無理矢理押し倒し、強引に唇を奪った。そして、地面に倒れきる間際にどこかへ通じるポータルを開き、光るポータルの中に溶けていくようにアニエスと消えて行った。

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