僕たちの失敗 第八話
尾花栗毛はどこかへ行ったのだろう。
困ったようにくるくると回っていたような蹄の跡は雪に埋もれて、馬と一緒に消えていた。
基地に戻れば元の主人がいる。俺とアニエスが基地から離れてしまえば、追跡をしてくるククーシュカも基地からいなくなるだろう。
賢く優しいあの尾花栗毛は、寒空に戸惑うことなく暖かい基地に戻っていてくれ、と願った。
アニエスの手を引き、俺は暗闇の中をひたすらに走り抜けた。
どれほどに距離を取れば移動魔法は混線しないのだろうか。考えたこともない。今は考えたくない。とにかく、遠くへ走って逃げることだけを考えた。
振り向かずに走り続けた。手を引くアニエスすら見ていないほどに。
だが、がっちりと指を絡めた掌は重く温かく、駆け抜ける途中でその手を放してしまうことはなかった。
「イ、イズミさん、そろそろ大丈夫じゃないでしょうか……?」
夜の闇の中で無心に走り続けた頭にアニエスの言葉が響いた。
走るのを止めて彼女の方を見ると、アニエスはぜぇぜぇと肩で息をして汗だらけになっている。魔法の連続使用で疲労していた彼女を無理矢理に走らせてしまっていたのだ。
「ご、ごめん。大丈夫か?」
膝に手をつくアニエスに尋ねると、下を向いたまま気道が狭まる様な咳をしながら頷いている。苦しそうな彼女を見ていた俺も咳がこみ上げてしまった。立ち止まると、額から玉のような汗が噴き出てきて、血が絡んでいるような味が喉の奥にする。
「一度偽のポータルを開いて移動魔法を使ったふりをしよう」
ゴクリと唾を飲み込み、息を少しだけ整えた。
背後の遠くに揺れる明かりは横に広がるように見えている。基地はまだ燃えているようだ。
ククーシュカが燃やしているのか、商会のヴァーリの使徒たちが魔法を片付けられていないのか、それとも両方か。
商会の連中が遠くからでもポータルの光を見つけられるように、意図的に目立つノルデンヴィズへポータルを開きその場に放置することにした。唱えた俺がある程度離れてしまえばポータルは勝手に閉じる。
ポータルを開き、アニエスの左手に治癒魔法をかけた。左手の甲にできた火傷は、真っ赤に爛れて真皮まで露出している。
だが幸い皮下組織までは達していないようだ。消毒し治癒魔法をかけるとしみるようで、くくぅっと苦しそうな声を上げた。
歯を食いしばり、引っ込めてしまいそうな手を堪えている。応急処置程度にしかならないが、薄い上皮で覆うことはできたので、無菌の物ではないが綺麗な布で覆った。
それから疲労でふらつくアニエスの傍により肩を貸した。本当に疲れ切っているようだった。
基地で兵士に囲まれたとき俺も戦えばよかった。だが、彼女の戦いにはおよそついていけなかった。あの時言った通り、邪魔でしかなかったのは自分でもよくわかっている。
どこかで休ませなくてはいけない。より深く彼女の脇に入り込み、下か肩を抱き上げるようにした。
「寒くはないな?」
うん、と短く答えると少しだけ落ち着いた息が白くなる。
「とりあえず君の故郷に帰ろう。カルルさんへの話はダリダさんとアルフレッドさんに頼もう」
「そうですね。父と母は離反軍を後押ししていましたから。私ではダメでも二人なら話を聞いてくれると思います」
アニエスが少し軽くなった。どうやら足に力を籠め始めたようだ。
基地の明かりもやがて見えなくなった。どれほど時間が経ったのかはわからない。ほんの一瞬だったのかもしれない。だが思い返せばその一瞬の間に色々なことが起きていた。
今はきっと真夜中、日も跨いだくらいだろう。辺りは完全に暗闇に包まれている。目立つので灯りは点けることはできないが、暗闇に目も慣れて足元は見えている。
降り続けつもり始めていた雪は白く、ありがたいことに星のない夜の中でも足元をぼんやりと明るくしていた。
このまま歩いてノルデンヴィズまで向かい、そして街には入らずに移動魔法でブルンベイクへ向かおう。
厚着をしていたおかげで俺たちは二人とも熱を失うことはなさそうだ。むしろ戦いのせいで熱くなった体にそれは少し余分なほどだ。喉の渇きはないが乾けば雪を溶かせば良い。
道沿いの雪上には明るいうちに誰かが通ってできたいくつもの足跡と轍があり、小判型の窪みだけになった古いものから角がつぶれているやや新しいものまで多く残っている。
道を外れて新雪の中に靴底の模様まで見えるような真新しい足跡を二つ残せば、かえって追跡をしやすくしてしまうだろう。
それに道なき雪の中を歩くのは大変だ。ある程度踏み固められた道の上を歩いたほうが疲れない。
遅い時間のはずだ。誰も通過しないだろう。怪しくくたびれた俺たち二人を見る人間はいないだろう。
戦いをアニエス一人に任せてしまったことに俺は罪悪感を覚えていた。
「ごめんな」
「何がですか?」
「全部、俺のせいだよな、ははは」
「そんなこと、ないですよ」と言いながら掌を優しく握ってきた。
火傷を負った方の手は手袋をしていない。外気で冷やそうとしているのだ。
俺が下手くそな治癒魔法で軽く治したが、赤く腫れまだ仄かに熱を持っている。火傷の痛みは小さな針をたくさん刺しているような痛みだ。だいぶ我慢しているのだろう。脂汗が額に浮かんでいる。
全部自分のせいだなんて言えるのは、彼女がそう言うと分かっていたからだ。いつでもどこでもそういって最後は許してくれるアニエスに甘えているのは俺なのだ。
それからも並んで寄り添いながらくらい雪道を黙って歩き続けた。
運よくノルデンヴィズまで追跡者から逃げ切れた俺たちはブルンベイクへと向かうことにした。
すでに東の空は白み、濃紺が途切れる夜明けが迫っているような時間だった。続いていた雪は街に近づくにつれ穏やかになり、着いた頃ににはすっかりと止んでいた。
外から臨むノルデンヴィズの街の様子は、一日が動き出す朝の騒がしさをあふれ出そうとしている静けさに包まれている。
「大丈夫か? 結局一晩中歩いてたな」
「さすがに疲れましたね」
「追手はこなさそうだ。一度ブルンベイクへ向かおう」
俺は移動魔法を唱え、ブルンベイクに繋がるポータルを開いた。
だが、ポータルを開くと、木の焼ける様な煤と紙やそれ以外の匂い、焦げる様な匂いが鼻の奥をついた。強烈なそれはポータルが広がってにつれて強まっていく。
匂いに眉を寄せたアニエスと並び、開いたポータルの中を覗くと見覚えのない光景が広がっていたのだ。