深雪と深紅の再会 第九話
弱くなっていく握り返す力を放してしまわないように、まるで抜けていく魂をつなぎ止めるかのようにアニエスの冷たい手を力強く握り、額を押し当てるようにして祈った。
だが残酷にもその手は額から熱を奪っていく。そんな都合良く応えてくれるわけがないだろう、冷静になれ、と訴えかけてくるかのように頭を冷やしていくのだ。
本当にダメなのか。女神はもう残された仕事を俺に託し、消えていきつついる。どれだけ強く呼びかけてももう応えてくれないのではないだろうか。
それでも何もできないで何もしないよりは、かつては近くにあった奇跡に祈り頼み込むしかできない。
応えてくれ、応えてくれ、何度も頭の中で念じた。
―――何? 助けろって?
そのときだ。確かに声がしたのだ。往生際の悪い頭の中に、やや気怠げでどこか哀愁を漂わせるやや酒焼けした女性の声が響き渡ったのだ。消えかけのあの女神はまだはっきりと呼びかけに応えてくれたのだ。
「お願いします! 助けてください!」
だが、応えてくれただけで喜んではいけない。それだけではアニエスは助けられないのだ。
いるわけもないとわかっていても思わず天を見上げると、聞こえてきた天の声にすがるように大声を出してしまった。
―――えぇ……。やだ。今回あたし関係ないし。
声に混じって聞こえる音にはガサガサとノイズが混じってくる。面倒くさそうに眉を寄せ、髪をかき上げ掻いているであろう姿が浮かぶ。それを考えてしまうと、申し訳ないと引き下がってしまいそうだ。
だが、今は、今だけはどうしても聞き入れて欲しい。引き下がることなどできない! ここで引き下がれば俺は一生後悔する。
だが、女神に迷惑をかけても後悔するのは目に見えているのだ。同じなら引き下がるわけにはいかないのだ!
「お願いします。本当に都合のいいときだけこうやってお願いするなんて最悪なのはわかってます! 他の勇者たちと同じなことくらい! でも、どうしても助けたいんです! なんでもする! 俺に託された力も差し出せって言うなら」と再び声を上げた。すると女神は即答してきた。
―――イヤイヤイヤイヤ、あんた、それでやり遂げてもらわなきゃいけないんだから。取り上げたら元も子もないでしょ。
「そんな!? じゃあどうすれば!?」
力んでしまいアニエスの手を思い切り握ってしまった。筋肉から力が抜け始めているのか、掌は子どもの手のようにとても柔らかくなっている。もう握り返してはくれないのだろうか。その焦りに追い打ちをかけるように女神は、
―――自分で考えなさいよ。
と冷たく言い放った。
ダメだ。もうアニエスは間に合わない。
強く握ってしまった掌から力を抜いて包み込むようにして、再び額に当てた。言うしかない。彼女の気持ちに答えて、楽にしてあげるしかない。
俺の気持ちなんて言うのはもうすでに決まっている。いつからか、それは分からない。共和国にいた時だろうか。もうその時には決まっていたはずだ。
あれからもう一年以上経っている。その間何をしていたんだ? 俺は最低だ。
こんな風になってしまうまで自分の気持ちを伝えられないなんて。
もうこれで最後なのだ。せめてはっきりと、そして確実に彼女に思いを伝えよう。泥と涙と血液にまみれ、痛みと寒さに震えるアニエスの耳にそっと顔を寄せた。寒かったろうに。紫色になっているじゃないか。
顔を寄せられたことに目を開いたが、それが耳に近づいていることに気がついたようだ。別れの言葉を聞かされるのだろうとアニエスも悟り、目尻からは大粒の涙が流れ始めた。
体の中の水分も出血でだいぶなくなっているはずなのに、どこからそんな量の涙が出てきたのだろうか。これ以上流れ出てしまうのは、あとは命だけだろうに。見ているだけで胸が締め付けられるようだ。だが、後悔するのはあとでいいんだ。今はせめてアニエスを笑顔で看取ろう。
だが、そう思うほどに目頭は熱くなり、鼻の奥が焼けるようになり笑えないのだ。手を伸ばしてアニエスの額を軽く撫でると、彼女は無理にでも笑おうとしてくれているのだろう。
光る目尻を必死を下げて、血だらけの口角をつり上げている。アニエスは最後の時ですら笑おうとしているのに、俺はただただ悲しみに暮れることしかできない。それが情けなくて、また目頭が熱くなる。
アニエスはもう動かなくなりそうな手を伸ばしてきた。顔に近づけようとしているようだ。頬を撫でようとしているのがすぐにわかった。俺はひどい顔をしていたのだろう。
その手をつかみ頬へと導くと、声ならない何かを口で言った。泣かないで、と口が動いたのだ。
顔を見せたくなくなり、俺は腕を肩に回した。そして、熱くぬれた頬をこすり合わせるようにして力強く抱きしめた。鼻をすするようにして息を深く吸い込み、小さな赤紫の耳に口づけをした。