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深雪と深紅の再会 第八話

 ポータルからどさりと落ちると埃が舞った。


 真っ暗な辺りを見回すと見覚えのあるベッドサイドテーブルに読み散らかした本、簡易なマジックアイテムの置かれたキッチンと呼ぶには小さすぎる調理スペース、脱ぎ散らかした部屋着、窓の風景と部屋の臭いに懐かしさを覚えた。

 オージーとアンネリの論文を持ってラド・デル・マルへ逃げ出したあの夜以来の部屋は何もかもそのままで、蜘蛛の巣と埃だらけになっている。


 アニエスが力を振り絞って移動魔法を唱え、ポータルを開いた先はノルデンヴィズの拠点だったのだ。


 何とか逃げ切れて緊張の糸が切れたのか、思い切りごほごほと咳き込みはじめた。大きく肩を動かすたびに鮮血を口から吐き出した。

 みぞおちよりも少し上のあたり、着ている服の上からですらわかる大きな傷口は、酸素をを求めて過剰に動く胸に合わせて血をブクブクと泡立てている。

 体内で出た血液が喉頭や肺に入り込み、自らの血で溺れ咳き込んでいるようだ。だが、咳き込んで動くほどにさらに出血し、自らの体内を血の海に沈めていく苦しみの連鎖に飲み込まれている。


「ぐ、ぐほっ……イ……ざん、ゴホッ……たじ、じに……ない! だく……ない!」


 ベッドに寝かせるとアニエスが手に触れてきた。握りしめていた血だらけの杖をベッド脇に置き、手を握り返すとすでに冷たくなり始めていた。

 冬の外気に冷やされたのではなく、自らの熱を作り出せなくなっているかのようだ。寒い部屋の中で白い吐息をあげ、その体内に残された熱を次々と吐き出してしまっている。


「動くな! 大丈夫だから!」


 冷たいゴムのようになり始めている手を強く握り返して無理やりに微笑むと、アニエスは目じりに涙を浮かべ始めた。血と泥にまみれた顔が見る見る青白くなっていく。

 どうすればいい。誰が見ても明らかに致命傷だ。心臓はわずかに逃れたようだが、肺が損傷している。おそらく外と貫通して気胸か血胸……なんてものではない状態だ。どこか大きな血管が切れている。食道の近くの静脈か、血の色だけではなわからない。いずれにせよ早く処置しなければ間に合わない。


「ざ、む……い。怖……。ぐっふ。死に……だくな……ゴホッ」


 アニエスはますます顔に悲壮を浮かべ震え始めた。見ていると自分までそんな顔になってしまいそうだ。

 だが、どうすればいいんだ。俺には知識がない。


 これまでできる限り思い出そうとしなかったが、俺は日本では医療系の学校を出ていた。

 解剖学や何やかにや、医療としての知識は学んだ。確かに学んだ。学んだだけだ。医者のようにそれをどうすればいいか、などと言うのは全く分からない。

 もしかしたら目の前で苦しむ女性の体の中ではこうなっているかもしれない。それはなんとなくわかっても、それをどうすればいいか。それは全く分からないのだ。自称医療系なんてのはそんな程度だ。


 そうこうしているうちにアニエスからは血の気は引いていき、肌はついに白くなり目の光りも濁り始めてきてしまった。無言になり考え込んでしまった顔を見たアニエスは目を大きく開くと、傷ついた肺のせいでのめないはずの息をのんだのか、ひゅーと気道を狭めるような音と共に首を少し下げた。

 そして、堪えていた涙をついに溢れさせると何かを悟ってしまったのか、笑ったのだ。


「イ……ん、ゴホッ、ガハッ!」


「なんだ!? しゃべるな! 何とかするから!」


 冷たい手を強く握ると、手の中の人差し指と薬指が握り返すようにわずかに動いた。


「ゴホッ! イズ……さん、好きで、ゴホッ! ゲホッ! ずっと、好きでしだ、グッ、愛じてます……」


「わかった! 知ってる! 大丈夫だから、そういうのは後で聞く!」


「ずっ……と、前がら……ゴホッ!」


 俺はそれに答えたくなかった。答えればすぐに消えてしまいそうだったから。手の中の指は言葉を待つようにひくひくと動いている。

 今ここで彼女の待つ言葉を言えば、きっと彼女は生きていたことに満足してしまう。普通に生きていればどうってことない、他愛もないはずのあのたった一言で。その程度の言葉くらいで満足して息を止めてしまう。だが、言わなければほんの少しだけ彼女が辛い時間が伸びる。

 答えたくない。でも言わなければ一生後悔する。言ってしまっても絶対に後悔する。


 どうすればいいんだ! 


 アンネリの時のように助けてくれないだろうか。


 困ったときだけ頼ればいい。自分の必要な特別な力だけよこせば良い。都合の良いときだけ名前を出して威を借りる。


 何も言わないから課された使命さえも何もしない。


 俺がそのときにしたことは、他の元勇者たちを何一つ変わりが無く、本当に自己中心的なことだというのはよくわかっている。


 力が抜けて動く指も次第に弱弱しくなっていく、もはや冷たいアニエスの手を強く握った。


 与えられた力を必要な方法で正しく使うことさえもできない人間が、追い込まれたときに咄嗟にできることは超自然的な存在に頼ることだけなのだ。


 俺は女神に祈ったのだ。

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