深雪と深紅の再会 第六話
グロテスク注意です。
グロの閾値がイマイチわからないのですが、人によってはグロく感じる可能性も考慮して注意書きしておきます。
瞼に触れたぬるい液体が睫毛にふれると、ピクリと反射が起きた。
その動きに合わせるように、両腕を押さえつけていたアニエスの太ももが一瞬強ばった様に俺の体を挟むと、腹の上にまたがる彼女の重さが空気が抜けるように軽くなるのを感じた。
ゆっくり目を明けると、アニエスの胸のあたりから緑色の尖った何かが突き出ているのが見えた。殴ろうとしていた右手は開かれだらりと右に流れ、反射に震えるようにピクピクと動いている。
何が起きたのか理解できずにその胸に見えた鋭利な異物に目をやると赤黒い液体がそこからじわりとあふれ出した。その液体が鼻先に頬に、点々と垂れると湯気を立て、少し冷めた人肌の温度を伝えてくる。
唇に垂れてくるとそれは鉄の味がした。ただの鉄ではない、本能に訴えかけてくる避けるべき嫌悪と湧き上がる興奮を抱く味だ。間違いなく、体か出てきたばかりの血の味である。
緑色のそれは刃で、垂れる液体は血液。アニエスは何かに刺されたのだ。刺されて間もないその切っ先は照明弾の光りを玉虫色の光沢でしらしらと返している。
ゆっくりと切っ先が豊かな胸の間にずるりと潜っていくと、アニエスが溺れているかのような泡立つ低い声を上げた。
やがて、切っ先が背中から抜かれたのか、びくりと大きく動くと口から流れ出ていた血は弾けて粒を巻き上げ、顎を突き出して倒れてきた。
太ももから解き放たれて動かせるようになった腕で向かってくる彼女を受け止めると、自ら動くことは少なく重力に逆らわずにだらりとのし掛かりまるで大きな砂袋のようになっている。
彼女の背後では消えかけの照明弾が明滅しいて、その中に青白い顔が浮かび上がると黄色の目が鈍く光った。
闇に溶けるが輪郭をはっきりと表したコート。イングマールやその他の自治領の軍の物ではない見覚えのある暖かそうなウシャンカ。
ククーシュカが背後に立っていたのだ。彼女の手には血に染まった緑色の短剣が握られている。
アニエスが刺されたこと、ククーシュカが後ろにいたこと以外に、何が何だかわからなかった。
「ク、ククーシュカ。なんで、君が、ここに……?」
土嚢に穴が開き、そこから砂が抜けて軽くなっていくような、まるで本当に土嚢になってしまったかのように意志を失いだらりと垂れていくアニエスを抱きかかえながら間抜けな声で逆光を浴びる彼女に尋ねた。
ククーシュカは短剣を横に振るいべっとりと付いた血を払うと、コートの前を僅かに開いてその赤と緑の補色で斑になった短剣をしまった。
一度目を閉じ落ち着かせるようにふぅと息を吐くと、強まり始めた雪の中に白い息が混じる。もはや消えかけている照明弾は地に落ちてしまいそうだ。
「私がここにいるのはおかしい?」と言うと左手の人差し指、中指、薬指を立てた。
「連盟政府側で離反討伐に参加していたの。正式なものではなくて傭兵として収益を得るため。イズミに逢うため。そして、スヴェンニーを討つため。この戦いは私たちの過去の後始末でもあるの」
そう言いながら一つずつ折り曲げていった。
「二つ目、あなたに逢うことはできた。でも、そこの赤い女は邪魔」
俺はそのとき唐突に理解した。アニエスを刺したのはククーシュカだ。
ククーシュカはコートの前袖を開いて手を入れると、そこからいつものバルディッシュを持ち出した。歩みながら取り出され両手で持ち上げ掲げられたそれは普段見ていた物とは思えないほど何倍も大きく、そして光を返すよく磨かれた刃は過剰なまでに暴力的に見えた。
彼女に切り伏せられてきた者たちはみなこの光景を見たのだろうか。切り伏せられるという逃れ得ない恐怖の光景が脳裏にこみ上げて来る。
刃の届く位置まで来ると立ち止まった。そして「どいて」と小さな声で囁き、明滅する照明弾の逆光の中で落下に任せるように振り下ろされ始めた。
俺は咄嗟に物理防御魔法を唱えて、アニエスに覆いかぶさるように転がった。
転がり避けたことで刃が横になり、なぎ払うようになったバルディッシュの衝撃を背中に強烈に喰らうと、五メートルほど吹き飛ばされた。
重力で加速の付いた刃部が腰に重くぶつかると衝撃が体中に響いたが、まだ足の感覚はある。二つに切られてはいないようだ。
咳き込みながら体を起こしククーシュカの方を見ると、アニエスから流れ出た血がとうとうと雪の上に並び、途切れなく連なるそれは出血の多さを物語る。
「な、何するんだよ?」
「邪魔者を除くだけ。その女にあなたはいらない。その女には家族も学歴も立場も、何もかもある。そこにあなたまでいる必要はない。それ以上は贅沢というもの」
「とりあげてどうするんだよ!?」
「どうもしない。結果生きようと死のうと、あなたは私と過ごせばいい。そのほうが私も困らない」
ぶんぶんとバルディッシュを振り回し、雪の上にどさりと突き刺した。
「仲間も家族も過去も、楽しい思い出も、何もない私にはあなたが必要。私を光の当たる場所に連れて行ってくれる」
鼻をそむけたくなるような、それでいて嗅ぐことを拒めない乾いた膠のような血の匂い。動くと飛び散るアニエスの血が目に見えないほどの一滴でも口の中に血の味を広げる。
彼女の赤い髪よりも濃い赤がボタボタと緩やかに腕や胴を伝い白い雪を染めていき、静かに降り積もる雪はアニエスに容赦なく積もり体温を奪い始める。
腕の中のアニエスはまだ何が起きたかわからないのか、驚いたままの顔ではっはっと小さな息を繰り返している。
雪に埋もれて寒さの中に消えてしまうのではないか、腕の中の彼女に積もる雪を払い、体を揺らし続けている。