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深雪と深紅の再会 第五話

 長い間着慣れたピーコートは毛が倒れてしまい、あまり水を弾かない。その表面にできた、地面に落ちた降り出した雨のように増えていく涙の染みを数えると、俺は何も言い返せなくなってしまった。


 そういえば、もしかしたら彼女は寂しいのではないかということも、俺自身が寂しかったということも忘れていたような気がする。

 寂しい思いをしているのではないかと言うのは思い込みだろうと言い訳を付けて自分の気持ちさえ無視していた。

 しかし、直接思いをぶつけられて無視できなくなり、自分の中にあった後ろめたさの原因がそれであることに今さらになって気が付いたのだ。


 共和国でギンスブルグの屋敷にいたとき、あの頃はまだ心のどこかに余裕があった。

 急に、そして立て続けに真実を知らされ、確かにエルフと人間は戦争を止めようと心に決めてはいた。だが、戦争は膠着状態で血生臭い戦いはなく、敵の大本営にいてもどこか他人事のように感じていた。

 だから、寂しいとか辛いとか、そんな風に考えていられる余裕があったのかもしれない。それがいつの間にか忙殺されて感じなくなっていたのだろう。


 しかし、アニエスは、馬乗りになって悲しい声をあげて震えている彼女は、共和国の一件以降ブルンベイクに戻ってしまえばこれまでと変わらないただのパン屋の娘だったのだ。

 今でこそ北部離反軍本隊の中佐で特殊隊長とまで言われているが、最初に会った時の田舎村の純真な娘と何一つ変わっていないのだ。


「いろんな……噂を聞きました。イズミさんについての。見た目とかしてきたこととか、悪く言われているのも全部知ってます。

 でも、でも、あなたが、私の知っているイズミさんがそんなことをするわけがありません」


 かっかとしていた頭の中と外で騒ぎ立てられていて気が付かなかったが、早い冬の遅い夜はすっかり静まり返っていた。

 道の上の轍には薄く雪が積もり、岩はしんしんと冷えている。気が付けばチラチラと雪も舞い始めている。

 照明弾はもうすぐ消えてしまうのだろう。光は低く落ち込んで、影を黒々とさせるほど光っていたその強さもだいぶ弱まってきたようだ。薄い影は長く伸びている。


「連盟政府か誰かがただ悪く言っているだけだって、私はそんな風にしか思っていません。

 本当は戦争回避のために行動してるって、知ってました。

 だから、それが、嘘をついているのが許せなくて、参加したんです。

 父も母は軍部離反の後押しはしましたが、私がそこに参加することには反対しました。その二人の反対を押し切ってまで参加したんです」


 知らない間に降り始めていた雪が積もった彼女の頭を、寒さでリンゴの様に赤くなった頬を両手で撫でたくなってしまった。しかし、押さえつけられているので動かせない。

 彼女はその真っ赤な顔を左右に振ると「違う」と拳を小さく振り上げて、「わ、私は、あなたに近づきたくて、離反軍に参加すればあなたがまた現れると思ったから、だから、参加した。会いたいだけじゃない。また同じステージに立てると、思ったから……」と胸板を小さくとん、とんと叩き始めた。


「なぁ、カミュの檻が少し綺麗だったのってアニエスがそうしたのか?」


 そう尋ねると、胸を叩く手を止めて両眼をぐしぐし擦り、うんうんと頷いている。

 クイーバウス領主のアンヌッカが問答無用で射殺されたことを考えると、その並びにいたカミュも同等であり、北部離反軍に彼女はもう必要がないということになる。だが、彼女が生きていられたのはアニエスが庇ってくれたからなのだろう。

 アニエスが北部離反軍に参加したのはカルルの思想に共鳴したからではない。だから彼女にとって軍紀など二の次なのだろう。

 それ故にかつて共に旅をしたカミュを個人的に庇ったのだ。庇ってくれたのだ。それは職業軍人としてはあるまじき行為だが、その人間臭さのおかげでカミュは生き延びた。


 本当に何一つ変わっていない。アニエスはあの頃のままだ。


 押さえつけているアニエスを押し返そうと力んでいた全身から力が抜けていった。するとアニエスも脱力してきたようだ。彼女の重さが伝わってきて、腹腔を押している。

 これまでよりも大きな、押しつぶされてしまうような後ろめたさに包まれ、やがて罪悪感に入れ替わり、どうしようもないほど情けなくなってしまった。押し出されるように、ごめ、と言いかけた。


 だが、突然と彼女は顔を大きく上げた。大粒の涙を頬から流し、振るえる拳を大きく上げている。どうやら彼女は俺をまだ殴り足りなようだ。拳は確かに握られているが、げんこつではなく小指球がこちらを向いている。叩くんじゃなくて殴るつもりなのだろう。


「絶対許さないんだから!」と怒鳴り、ついに拳が振り下ろされた。


 これまでで一番強そうなのが来そうだ。だが、避けられないし避けてはいけない気がした。

 でも、痛いのはちょっと嫌だ。受けて堪えようと思わず目を思い切り強く閉じてしまった。


 だが、拳は飛んでこなかった。

 その代わりに、温かい粘り気のある水が顔にかかった。

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