深雪と深紅の再会 第三話
冷静になればとんでもない変態行為だが、これ以上殴られるのはごめんだ。
俺は殴られているし痛い思いをしているのだから冷静になんてなる必要はない、防御反応だ、と自分に言い聞かせてもはややけくそになってアニエスを絡めとった。
絡めとられて、おまけにコートの中に手を入れられるという何とも言い表せない感触にアニエスは動きが止まっていたが、次第に震えだしついに声を上げ始めた。
まるで井戸の底や遠くの方から聞こえ始めていたような小さな声はすぐに悲鳴になり、以前雪山で聞いた悲鳴を越える記録的な大声になっていった。
辺りの地面が吹き飛ぶのではないかと思うような大声である!
「いやあああああ! だめぇぇぇ! 放してぇぇぇぇ!」
耳元で叫ばれるとキンキン頭の中で響いて、視界までくらくらしてくる。
「いやだーっ! ここで放すわけにいかない! これ以上殴らないし、二人を追いかけないって言うのか!? 言ったら放してやる!」
「ななな、な、なんでそう言う風になるんですか!? それは、あっ、あなたの変態行動と関係ないですぅ! 今すぐ放しなさい! やだ! やだ!」
「へ、変態行為しても止まれば何でもいいんだよ! 言うまで絶対離さないぞ!」
声が裏返ってしまうとますます変態感が出る。とは言いつつも、こんな状況にもかかわらず内心ちょっといたずらしてもいいのではないかというものが湧き上がり、揉みし抱くように手をわざとらしく指を曲げた。
緊迫していた殴り合いから一変して、どうしようないただの痴話げんかのような雰囲気になってしまったのである。
アニエスは叫ぶのをやめると、目じりに涙を浮かべてキッと睨みつけてきた。
首が無理やり左に押されたような感覚の後に遅れて、頬にじんわり広がるような痛みを覚えると、左目の瞼を塞がれ見えなくなった。思い切り右手でビンタをかまされたようだ。
勢いでコートの隙間から手が出てしまったが、反対の手は指を曲げていたおかげでまだしっかりと掴んでいて放してまうことはなかった。
だが、浮き気味になった足を掬われて押し倒され、そのままアニエスに馬乗りになって取り押さえられてしまった。
こうなってしまえば彼女は俺の魔の手から逃れられる。しかし、彼女の心に別の個人的な感情が湧き上がってきてしまったのか、腹の上でまたがりがっちりと足で両腕を押さえ込むと、涙目になりながら両手で杖を持ち上げ天高く掲げた。
「最低! 最低! 最低!」
怒鳴ると杖が声に合わせて振り下ろされた。二人を追いかければ良いはずだが、我を忘れてしまっている。
フオンフオン空を切る音に合わせて、右に左に少しだけ動かせる頭を精一杯動かして、降り注ぐ杖先を回避した。
「ちょちょちょ! さすがに危ないって! うわっ!」
「うるさい!」と言うと再び杖を振り下ろした。
本当に顔面直撃を狙っていたようだ。右に避けると左耳で空を切る音がした直後に泥水が舞った。歯を食いしばり、涙目で殴り続けるアニエスの顔に点々と泥が跳ねたが、彼女はそのようなことなどお構いなしに殴り続けている。
「何するんですか!? ホント、嫁入り前の女性の服の中に手を突っ込むとか、死ねばいいのに!」
「ちょっと待って! 杖! 危ない! 尖ってるって! 杖で殴るのは止めて!」
「このっ! このっ! 死ね! 変態! クズ! あの二人にもそういうことしてたんでしょ! どうせ」
「ごめんなさい」
彼女が言うようなことをした記憶は少なくとも俺自身にはないが、半泣きの女の子が馬乗りになっているのを見上げていると何を言ったらいいのかわからず、とりあえず謝ってしまった。
すると振り下ろされる杖が頭の上で一度止まった。そして、彼女の手から杖が落ちてカランカランと転がった。
怒りに満ち満ち、額に青筋を浮かべていたアニエスの顔から潮が引いたように表情が無くなった。許してくれたのか?
だが、まるで地下深くで起きた大きな揺れがやがて地表に伝わるように体が震えだし、灰色の特注軍服が膨張したように見えた。それがピタリと止まった瞬間、
「謝んないでよ! したことあるのか、こんのバカヤロー!」
と先ほどよりもさらに強い力で今度は拳が顔面目掛けて落ちてきた。
「うわっ! してない! してない! してないけどごめんなさい!」
言い終わると同時に、硬く握られて筋と関節の形がはっきり浮かび上がった拳が鼻にぶつかった。
「だいたいなんなんですか!? これまでだって!」
鼻を曲げられたのではないかと思うほどの骨と軟骨のびりびりとした痛みの中で、ついに放ったらかしにしていたことを怒られるのか、そう思いながら罪悪感をよみがえらせていたが、「人の胸ばっかりチラチラ見てきて!」と顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
そっちが先なのか! 鼻先から奥へとじわじわ広がる痛みと、放ったらかしにしてしまったことへの罪悪感で目の奥がツンとしていたが、その一言を聞いた瞬間に馬鹿馬鹿しさがこみあげてきてしまった。募っていた罪悪感が大きかった故に肩透かしもひとしおだ。
「初対面の時から胸ばっかり見てきたじゃないですか! 私はあの時まだ何にも言えなかったけど、見られてることぐらいわかってたんだからね!」
ごめん、と言えば殴られるがそれでも謝ったほうがいいのは確かなのだが、謝るのも馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。それどころか腹の奥で全く異なる性質の何かがふつふつと湧き上がる様な気がしてきてしまった。
「こんなんの何がいいんですか!」
俺はここに至るまでに戦争だの独立だの、わかりもしないことに巻き込まれてきたというのに、馬乗りになって抑え込んでまで俺を殴るこの女は、たかが胸を触られたくらいで、しかも一方的に殴られた末の正当防衛の結果起きたことで、仕事そっちのけで半泣きになって喚き散らすのか。
その程度で喚き散らすなら、俺は何をすればいいのだ。魔力を暴発でもさせて目に見えるものすべてぶち壊せばいいのか。
だいたいなんだよ。放っといたくらいで。今まさに戦いが起きてるんだぞ?
お互いに死なずに再会できただけで万々歳じゃないか。もう会うことができない者同士もごまんと居るはずだ。
ふざけんな! もう我慢の限界だ!