回る物を回す者 最終話
「なんだと!? 何故このタイミングなのだ!? まさかイズミくんか!?」
カミーユ脱走の一報を受け額から仕草まですべてに焦りを浮かべたカルル閣下は立ち上がり、テントに入ってきた兵士に尋ねている。
イズミさんを呼び捨てしなくなったその口振りから察するに、どうやらイズミさんへの嫌疑ははれたようだ。しかし、はれたところですぐさまハートのエースと脱走。駆け引きの下手なジョーカーと閣下の仲直りは国ができてからになるだろう。
「目撃者の話では、現場となった可動式牢収容テント周辺にて移動魔法の使用が確認されましたのでおそらく彼の仕業かと思います」
「見張りは何をしていたんだ!? 彼にはすぐにでも伝えなければいけないことがあるというのに!」
「ふ、二人とも西の訓練エリアで気絶していたようです」
閣下ははぁっと息を吸い込み額に手を押さえつけると、椅子にドサリと落ちるように腰掛けた。
「遅かった……。やはりここから彼を追い出すべきでは無かった。商会の小娘! どう責任をとる!?」
「私に聞かれましても困りますね。私は出て行くようにお願いしただけであって、最終的には閣下のご命令でしたので」
「屁理屈を……! これだから商人は! ええい! とにかく脱走者を捕まえろ! だが、一切傷つけるな! 他に協力者はいたのか!?」
私は黙ってみていましょう。
閣下は焦っておられるがあなたは戦争には決して負けない。閣下の感じる焦燥は、イズミさんがカミーユを助け出した程度で済むのだから、今ここで存分に慌てふためいて貰おう。
だが、伝令の兵士は報告を済ませてもすぐにテントを後にせず、一歩一歩と閣下に近づいていった。大事な何かをまだ持っているかのような駆け足で閣下に近づいていく。
そして、「逃走中にこれを落としていきました」と言って兵士がワッペンか何かを渡したのだ。
それを見た途端、友人が助け出されたことに感じていた安堵は、海からも吹き荒れる時代の突風に押し流され、呼吸が止まるかのような感覚に包まれた。僅かに見えた彼の手の中には、信じがたい物が握られていたのだ。
カルデロンの紋章である羽を左右に大きく広げたアホウドリをモチーフにしたユニオン軍旗、開翼信天翁旗の描かれた青いワッペンだったのだ。
凪には飛ばぬ巨大な海鳥が、丘を越えてここまで飛んでやってきてしまったのだ。
「カルデロンの者が、おそらくエスパシオ・カルデロンの妹のティルナと共謀して牢屋から連れ出したようです! 現在三名は基地の馬を使い、ノルデンヴィズ方向に逃走中の模様、アニエス・モギレフスキー中佐とビョルトゥンたちが追跡中です!」
閣下は冷静さを失い、机に拳をたたき付けた。
「おのれカルデロンめ! 黙っておればいいものを!」
「それも一つではありません! まき散らすように何個も落としていきました!」
「どういうことだ! なぜ自らの正体を晒すような方法をとったのだ?」
「わかりません。我々を侮辱しているのでしょうか」
閣下は口を押さえしばらく黙り込むと「いや」と顔を上げた。そして、「死人は出たのか?」と兵士に尋ねた。
「いえ、幸いにも全員軽度の負傷で済んでいます」
「なるほど、よくわかった」
報告を聞いた閣下は冷静さをすぐさま取り戻した。背筋を伸ばすとそれまでの憔悴しきった表情を変えまるで別人のようになり、指導者たる威厳を持ち始めた。
「ひとまず、イズミくんを確保しろ! 追跡に向かったアニエス中佐はイズミくんとは親しい。痛い目には遭うだろうが殺害に至るまではしないだろう。中佐が連れて帰ってきたらすぐここに呼び出せ!」
伝令の兵士だけでなく、テント内にいる指揮官たちにも指示を出した。
「相当な抵抗は予想されるが、相手は殺す様なことはしない。こちらも武器の使用は許可する。だが、絶対に殺害してはならない! いいな!」
指示を受け、伝令だけで無く指揮官たちも背筋を伸ばすと、一斉にはっと敬礼した。それぞれに背後に立たせていた部下を呼びつけ各々に指示を出している。
「なんとしても彼を連れてくるのだ! 脱走した金融協会の娘は後回しでいい! 急げ!」
閣下と兵士たちが慌てふためく様子を見ながら親指の爪を噛んでしまった。私の良くない癖だ。これは予想外のことが起きてしまった。
だが、冷静に考えればあり得る話だ。イズミさんは今ユニオンを拠点にしている。寝食を提供し仲間の研究の補助を積極的に行うカルデロンと、街まで運んで借金を負わせ論文までも奪おうとした私のどちらに重きを置くか。
つまり、カルデロンとのつながりは『親密』であり、私と彼との間における『取引相手』とは比較にならないほどに濃厚なものであるのだ。イズミさんは『親密』であることと『取引相手』であることに分け隔てがない。
その甘さというか優しさというか、そのせいで目が曇り、まだ私とのつながりはあると思い込んでいたことや、遠くばかりを見過ぎて目先の事実をあまり考えていなかったことは、私のミスである。
カルデロン、いやユニオンの代表が金融協会の頭取の娘を救出。救出は本来は隠密にする方がベストだが、これだけカルデロンであることを主張して助け出すという意味は、あくまで彼らの目的はヴィトー金融協会からの評価だけであって、第二スヴェリア公民連邦と戦う意志はないというアピールに違いない。
だが、それが成立するためには、閣下にとってカミーユが交渉のカードたり得ない場合。
たった今、閣下は明らかにカミーユの捕縛を後回しにした。もしかしたら、ヴィトー金融協会と縁を切るのは既定路線であり、彼女を捕縛したのはただ単に金融協会北部支部への監査が邪魔なだけだったとしたら?
私は何重にもしてやられたようだ。カミーユが生きていられたのは、きっとアニエスさんが取り計らったからに違いない。彼女も北部に住む人間で、尚且つ私と同じくややこしい一族。だが、それでいて優しい。優しすぎるのだ。
感情で動く前に、自らの名前と出自の持つ影響力を自覚して貰いたい。確かに友人を助けていただけてありがたいが、随分とややこしくしてくれたものだ。
まったく、もう、二人とも! 優しい人間とはなぜこうも厄介なのですか!
これは非常に厄介だ。
ヴィトー金融協会は不正に分離した北部支部を除けば、連盟政府、ユニオン、さらには旧友学連にもまだ自由に行き来ができる存在。
連盟政府が押されつつある今、まだいとも簡単に国境を越えられる彼らを、彼らの頭取の娘をカルデロンが救出したとなると、今後の金融の流れはユニオン、いやカルデロン・デ・コメルティオに向く。資本の後ろ盾を持てばユニオン独自通貨発行も容易になる。それは一向にかまわない。
一方、第二スヴェリア公民連邦国は強大であれこそまだ未熟、国家そのものはまだ机上の空論でしかない。
協会と第二スヴェリア公民連邦国、この二つを天秤にかけ、カルデロンが金融協会を取ったのは正しい判断だ。
私たち商会にとって何が問題なのかと言うと、下手をすれば、弱体化しつつある連盟政府にユニオンがとって代わるかもしれないのだ。
現時点でまだ一番強いルード通貨の覇権がユニオンの新通貨に乗り替わる可能性があるということ。そうなってしまうとユニオンに立ち入れない私たちトバイアス・ザカライア商会の立場は……。
これは始末書ではすまないでしょう。
イズミさんがカルデロンに協力していることがはっきりした以上、私たちヴァーリの使徒に課されている『シグルズ指令』が最優先になる。少々、だいぶ状況が悪化してしまった。
私もイズミさんを追わなければいけなくなってしまった。
待っていなさい。イズミさん、ヤシマさん、そしてアニエスさん。他は誰かに任せても構わない。しかし、あなた方は確実に私が。