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なぎさにまつわる 第三話

第12話です。

転生前最後のお話です。

 ある日、なぎさから電話があった。


「私、やめるよ。つかもうやめたー。旦那もオッケーしてくれたし、新しい職場も見つかったし」

「そうか。悪い誤解を旦那さんがしなくて良かったよ。俺はどうなるかわからない」


 電話越しの彼女の声はもう吹っ切れていたようで、いつもの、あのころのなぎさにすっかり戻っていた。それがほんの少しだけ俺を安心させてくれた。そして一呼吸置いた後「和泉くん、ごめんね」と謝罪を受けた。


「なんでなぎさちゃんが謝るの? 俺はなんとかするから大丈夫!」


 本当は大丈夫ではない。いつもなら前向きななぎさの前だと自信を持てたのだが、そのときはもう虚勢しか張れなくなってしまっていた。電話を切ると上を向いてため息をついた。白い吐息がいまにも雪が降り出しそうな空に紛れていく。

 桜子のことは、もちろんだが伝えていない。




 なぎさは職を辞めて新しい道へ進んで行った。次はどうやら遠いところに行くらしい。今度の結婚式には辞めた職場の俺以外の人間は呼ばないそうだ。招待状を出すギリギリで間に合ったようだ。なぎさは職場以外にも友だちが多いので職場の人間が数人減ったくらいではどうと言うことが無いらしい。

 そして、俺はどうするか。もう居づらい職場だ。

 そんなところにいられるだろうか。職場の皆は俺のことを不倫の末、相手を遠くへ追いやったクズ野郎だと認識しているので、評判はすこぶる悪い。

 もともと考えてはいなかったが、出世の道は完全に閉ざされたようだ。

 果たして、そんなところにいられるだろうか。




 それにもかかわらずしばらくの間、すぐに辞めたなぎさと違い、俺はまだ大学に残っていた。新たな職場を見つけたり、そこで生活を始めたりという、大きな環境の変化を味わいたくないという願望をもち、さらにありえないということはわかっていてもその噂の熱や風がさめることを往生際悪く期待していたのだ。

 辞めろとは直接言わないにしろ、辞める方向へと誘導されているのは日々感じて過ごしていた。年度末までは二、三か月とだいぶ時間はあるにもかかわらず、新年度の席替えと称し部署にあった俺の座席は姿を消した。

 それだけでなく、共用の机も使用禁止になり、使用できる机は部署から遠く離れたラウンジのテーブルだけとなった。そして、パソコンには最新のOSにウィルスソフトを入れていたのにもかかわらず、学内ネットワーク上のウィルス感染の脅威になると言う理由で与えられていたメールアドレスが失効となった。


 噂を流した桜子とはどうなったか。

 報告以来、一度もあっていない。俺は避けていたのだ。

 会うことなどできようものか。大学を卒業しても、仕事を始めたとしても、俺は大人になりきれていない。だから嫌な噂を流されていても落ち着いて顔を合わせることなどできるはずもない。会えばその瞬間心の中はどす黒い何かに覆い尽くされて、体が燃えあがるようにほてり、感情をむき出しにしてしまいそうだからだ。そしてその後落ち着きを取り戻すとすさまじい後悔にさいなまれる。そうなる自分が嫌で仕方がない。考えるだけで背筋が凍るようだ。


 そしてあるのはただ怒りだけではない。婚活に夢中になり焦っている桜子に何も考えずに、なぎの結婚を伝えてしまったことへの自己嫌悪もあった。それが原因で生まれた桜子の負の感情を考えると、もし俺がその立場ならばありえもしない噂を流して、何もかも台無しにしまいたくなるのではないだろうか。きっと桜子は破れかぶれになっているに違いない。噂のせいで何がどうなろうとかまわない、そんな風になってしまっているのではないだろうか。そう考えると、桜子も被害者なのだろう。




 夜もだいぶ更けて、日付が変わるころ。

 俺は環七の大原の横断歩道で信号待ちをしていた。


 交差している甲州街道はそのときにしては珍しく人通りがなく、そして車は一台も通過していく気配がなかった。

 車が通っていないからと言って信号無視する気にはならず、コートのポケットに両手を突っ込んで信号が青になるのを待っていた。

 一人になるといろいろ考えだしてしまう。

 白くもうもうと立ち上がる吐息を眺め、これからどうするか考え始めた。

 いったいどうしようか。自分の将来像が見えない。想像できない。そんな不安ばかり頭に浮かぶ。


 しばらく考えていると、視界の隅に見えていた歩行者信号が青に変わっていた。

 はっと気が付き、信号を渡り始めた。


 横断歩道を三分の一くらい渡ったときだった。

 左から物音がして横を見ると、真っ暗な視界のなかいっぱいに自転車が広がった。


 考え事をしていて、周りに対する注意が低下していた。道路を無灯火で逆走する自転車に気が付くのが遅れたのだ。自転車側も誰もいないと思っていたのだろう。振り向きざまの刹那に見えた姿はイヤホンをつけて下を向きながらこいでいた。


 どれだけスピードを出していたのだろう。ものすごい音がして自転車と激突した。




 とんだ意識が戻り、目を開けると首都高の高架と都会の星空が見え、慌てて身体を起こそうとした。

 しかし、何かが身体の上に乗りかかっており、それが邪魔をして起こすことができない。ぶつかり転んでまだ時間がたっていないからか、力を込められない。


 とりあえず落ち着こうと思い、息を吸い込もうとした。

 その瞬間、左胸に激痛が走った。まるで肺が小さく押しつぶされたような。

眩暈が強くなり、ふたたび倒れこむ。今度は寒くなってきた。真冬だから寒いのだろう。けがをしたかな。

 左の肋骨部に何かあるような。転んで胸をぶつけたようだ。骨が折れていないといいが。

 違和感ぐらいだ、大丈夫だろうと思い、下を見たとき




 身体から自転車のハンドルが生えていた。


 腹部からおそらく肋骨の内側に向かって、自転車のハンドルがえぐるように刺さっていた。コートは赤みを増していく。力なく地面に落ちた手に暖かい水がふれた。


 声を出す間もなく意識が遠のいてく。そしてとてつもない寒さに襲われた。

 ピントが合わなくなりつつある視界に入るのは、無表情で自転車のハンドルを力いっぱい引き抜こうとしているイヤホンをしたおばさんの顔と自分の下から広がる血の池。


 イヤホンから聞こえる音漏れがエコーし次第に聞こえなくなっていく。動かされるハンドルが肋骨を押して軋む音か感覚かは身体の中でまだ響いている。歩行者の青信号が点滅している。早く渡らなければ。


 ぐぼっと音がすると、血まみれのハンドルがずるずると上体を這い、血を塗りたくっていった。

 最後に覚えているのは、体の中から聞こえた水っぽく何かが抜ける音だ。


 すると栓を抜かれたように意識は遠のいて行った。


 なぎさ、スピーチ、ごめん。



―――――――――――――――


「うっわびっくりした。イズミくん何やってんのこんなところで」


 どこか懐かしいような、それでいて何一つ思い出したくもないあのころの長い夢を見ていたような気分だ。

 誰かが夢の中の意識を揺さぶった。声に気が付いて目を開けると床にはたくさんのタバコが落ちているのが見えた。水で湿ってぐずぐずになったフィルターやそこから漏れだした焦げた葉っぱもある。顔を上げてみると声の主は女神で、ここはおよそ一年前、環七での事故直後、この世界で最初に訪れたところだ。久しぶりに見るボロボロでダクトテープだらけのパイプ椅子に俺は座っていた。


「あれ? ああ、こんにちは。女神さま」


 女神は近くにあったスポンジのはみ出たスツールに座って足を組み、膝に頬杖をついた。俺の顔を覗きこむや否や、眉間にしわを寄せて渋い顔をした。


「うーん……? あんたが勝手にここに来るってことは、もしかして何かで瀕死になったでしょ?」


 瀕死。だったのだろうか。俺とカミュはシバサキにヒミンビョルグの山中に放り出されて、そして別荘を探して、そこで暖をとっていたはず。眠気に襲われてそれから、気がついたらここにいた。冷静に考えたら雪山で眠るなど遭難死の典型ではないか。俺は雪山でのことを覚えている限り女神に話した。


 スツールに座っている女神は、ポケットから電子煙草を取り出し吸い始めていた。二本目が終わるころぐらいにちょうど話も終わり、聞き終わった女神は深く目を閉じて、息を吐き出した。

しばらく押し黙った後「なるほど、ね」と小さくこぼした。


 そしてまた再び何も言わなくなった。



「でさ」


 意味ありげな沈黙の後にもたらされた一言に俺の鼓動は跳ね上がり、思わず下唇を噛んだ。これからなにを言うのだろうかと構えると女神の口が動いた。


「あの戦士の女の子とえっちぃことしたの? ねぇねぇ? 雪山で、二人で遭難とかべたべたじゃな~い。普段鎧してるからわからないけど脱いだ身体はどうだったの? ねぇ?」


 いきなり立ち上がりすり寄ってきて、鼻の下を伸ばした女神は肘で胸板を小突いてくる。何を言い出すのかと思えばそんなことかと頭がくらくらした。

 腹の立つ肘を手でそっと払いのけた。


「いや、そもそも低体温症起こしてたみたいで何にも覚えてないですって。カミュと何かするとは思えませんし」

「そういえば、さっきからちょいちょい出てくるカミュて誰??」

「あの戦士の女の子、カミーユがそう呼んでくれって言っ」


 ふと思い出すのは、熱を帯びた耳元でまとわりつくようにねっとりと、そして甘ったるく「カミュ、私のことはカミュとお呼びください」と囁かれたことだ。

さらによくよく思い出してみると何か様子がおかしい。妙に距離が近かった気もするし、全身に温かい何かがあたっていたような気がする。これはもしや。

言葉に詰まり、つばを飲み込む。目が泳ぐのを抑えられない。


「あンれれれ~~~?? どうしたのかな~~?? イズミッくぅ~ん??」


 女神は両手をグーにして中指と薬指の間から親指をのぞかせ、下品な仕草をしている。

 いや、そんなはずはない。

 第一俺はそれ以外何一つ覚えていないのだ。


 視線をそらして喉仏を上下させる俺に早くも飽きたのか、女神はさっと離れ暗闇の中にある壁に寄りかかった。

 電子煙草の稼働音なのか、ピーンというとても小さな音が聞こえる。

 それから何も言わずに二本ほど吸い終わったあとだ。三本目を本体に刺しながら女神はゆっくりと口を開いた。


「あんたさぁ、もう辞めなさい。シバサキんとこ。シンヤくん、前の勇者みたいになられても困るし」


 壁に頭をつけたまま、ゆっくり上を向いた。

 意識を失う前、俺はカミュにシバサキのところなどやめて新しくはじめようと言った。あのような状況に陥っていたのにもかかわらず俺はそれで本当にいいのかと、心のどこかにわだかまりを持っていた。組織をやめるということは、その組織の規模の大小や流れ出る人材の優劣に関係なく、悪い影響は必ずと言っていいほど出るはずだ。例えそれがシバサキのチームであったとしてもだ。


 いや、むしろシバサキのチームだからこそだ。俺がいなくなることで俺へ吹いていた風当りはその後どこへ向かうのか。俺以外の二人か、それとも他の誰かか。どこへも向かうことなく、俺の杞憂で済むならそれはとても理想的だ。

 俺は以前カミュとレアに推されて仮のリーダーになった。その時も似たようなことを考えていた。

自己犠牲は嫌いだったはず。それなのになぜ俺はとどまり受け止めていたのか。

 簡単だ。自己犠牲でもなんでもない。自分にしか受け止められないと思い込んでいて、なおかつ急激な変化を避けていたからだ。昔と、東京にいたころと何も変わっていない。


 しかし、とどまれと言った女神がやめることを勧めてきた。まるで長い間求めていた許しを得られたようで、そのとき体の奥が軽くなったような感覚に包まれた。

 立場が上の人間が俺に辞めろと指示したという、組織悪化懸念を無視することへの言い訳ができたことに安堵しながらも、これから起こる変化を受け入れられないかもしれないという不安が同居している。

だが、もうそんなことは言っていられない。命には代えられない。変わらなければいけないのだ。


「言われなくても、そのつもりです」


 女神の言葉に対して、刃向うわけではないのに少し語尾を強めて返事をしてしまった。

 それを聞いた女神は視線だけをこちらに流すと片眉をあげて微笑み、三度ほど頷いた。そして、電子煙草からスティックを取り除き水の入ったバケツに投げ入れたあと、胸の谷間からタブレットを取り出すとスワイプしはじめた。


「そ。じゃあたしのほうもさっそく書類作っとくわ。タバコの充電切れたし。班の通し番号は、37班で、えー、新リーダー、イズミっと。趣味……そうねぇ……、じゃ巨乳、姫騎士、ロリエルフ、っと」

読んでくれてありがとうございました。

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