ノルデンヴィズ南部戦線 第二十二話
「私はノルデンヴィズの東側のクイーバウス自治領主のアンヌッカと言う者だ」
声の方を向くと隣接する牢屋の格子から腕が伸びていた。格子から伸びているその手は伸びきった爪の間に黒々と何かがつまり汚れてはいる。
しかし、他の囚人に比べその血色は良く、親指、人差し指と中指には綺麗な指輪が嵌められていて、招くように手をひらひらさせるたびに薄明かりの照明の僅かな光を照り返している。
そちらへ近づいて覗き込もうとするとティルナにぐっと服の背中を掴まれた。彼女の顔を見ると小さく左右に首を振っている。伸びている手に服を掴まれてしまったら、そこから出すまで離してはもらえなくなるという警告のようだ。
だが、無視してしまうわけにもいかず、手の届かない距離を取りつつ覗き込んだ。
「おお、お若いの、話を聞いてくれるのか。軍部を押さえられてしまいカルルに従わざるを得なくなったのだ。
しかし、領民の意志を汲まずに争いに巻き込むなど到底できない。反対したら捕まってしまった。私たちを拘束して、こうやって連れ回しているのは盾替わりにするためだ。
そんなのが許されてはいけない。私にはここから脱出し連盟政府にこの事実を伝えるという役目がある」
背後に見える薄暗い牢屋の中には、明らかに食事として与えられたものではない食べ物の残りが置かれている。隅にはタバコの吸い殻が、それも少しだけ吸っては捨てたものが散乱し、茶色の葉は古くなり黒くなっている。
ノルデンヴィズのあるシュテッヒャー領の東に位置するクイーバウス領といえば、連盟政府には多くないと言われているはずの貧しい自治領で有名だ。
かつてノルデンヴィズの広場噴水前でたむろしていた水汲みをする柄の悪い男たちは、職を求めて治安の良いノルデンヴィズに入り込んでいた者たちで、その“クイーバウスの零れ水”はたびたび問題を起こしていた。
土地が貧しいわけでもなく、山が険しいわけでもなく、それに税もないのに彼らが貧困にあえいだ末に自治領を跨いできたのかと言うと、領主アンヌッカが、つまりこの男が市民の持ち物はその体一つだけという考え方で、領地内の財産は市民の物も含めてすべて管理していたそうだ。
それ故移動の制限もされていた。それ以外は共有され平等にされていたそうだ。
表向きはクイーバウスには貧困など存在しないと言っていたが、みな等しく貧困というだけであった。ただ一人、領主を除いて。
それを他の領主に会合の際に咎められると、采領弁務官という腐敗しきった制度のせいだと言い訳をしていると聞いたことがある。
俺はそこから出すつもりはない。らしい、だろう、で終わる聞いた話程度でしかないようでは個人的な感情も沸いてこない。不用意に出すわけにはいかないのだ。
そして、その領主がどうしてここにいるのかを噂を基に考えると出そうとも思えない。
どうするのかなど議論の余地もないが、ティルナの顔を窺った。
彼女はため息を吐きだし、「私はアルバトロス・オセアノユニオンの者です。ここであなたはこうして捕まっていると言うことは、少なくとも私たちとはまだ敵対していない北部の離反者たちの仲間ではなく、連盟政府の人間と言うことになります。
残念ですが、ユニオンに対して軍事行動を行った連盟政府側の人間を救済する義務はありません」と首を左右に振った。
「その肌はイスペイネの者か。ならば“パラ・ラ・ファミーレ”という言葉の意味をよく考えなさい。その言葉を信条とするならば、私を助け出すのが絶対の正義なはずだ」
「よくご存じですね。ですが、“家族のために”の意味は救済でも正義でもありません。
そもそもあなたが捕まった理由は、カルルの野望のためではなく自ら過ちを犯したからではないですか?」
ティルナに強めにそう言われると、アンヌッカは黙ってしまった。どうやら自分が領主だったころにしていたことがただの搾取だという自覚はあったようだ。ならばなおさら質が悪い。
「自覚があるというならば、“救済”という言葉すら惜しく、向ける“正義”もありません」とティルナは背中を向けた。
「そんなこと言っている場合ではないぞ。今ここで人道的な問題が起きているのだぞ?
ここで私を救出すれば、逆賊イスペイネの者だろうと鎮圧後に財産と権利を保護してやれる。私は十三采領弁務官理事会の一人だ。そのくらいのことはたやすい」
「あなたが十三采領弁務官理事会であるならば、ますます救出するわけにはいきません。その十三采領弁務官理事会が取り仕切ってきた惰性政治こそ私たちユニオンの独立を決意させたのですから。
ブエナフエンテのタバコをご愛顧いただき、ありがとうございます。でも、それはどうやって手に入れたのですか? その綺麗な指輪で看守を買収したのでしょう。出たければその残りの指輪で買収でもしなさい」
アンヌッカは格子を掴んでいた掌をぐっと握った。その指指についていたエメラルド、トパーズ、色とりどりの高そうな指輪がきらりと光ると手をひっこめた。
「そうか……」
諦めたかのように格子から離れると、大きくため息をして壁際のベッドに腰かけた。
だが突然「誰かー!」と大声を上げたのだ。
「来てくれ! 侵入者だ! 脱獄させようとしているぞ!」
出してもらえないと分かると大騒ぎし始めたのだ。
声だけでは物足りなくなったのか、金属のコップを拾い上げると格子をカンカンと叩き始めた。
金属のコップは見る見るへこみ、音に合わせて移動式の牢屋は揺れてガチャンガチャンと音を立てている。