ノルデンヴィズ南部戦線 第十五話
ムーバリ、いやモンタン、目の前にまた現れたその男をどちらで呼ぶか。
彼はこれまで使い分けていた名前は、モンタン、モットラ、ムーバリの三つだ。それ以上にいったいどれだけ名前を持つのだろうか。
そして、その中にたった一つの本名があるのだろうか。俺にとっては共和国で最初に顔を合わせたときに名乗っていたモンタンだ。それも本名ではないのだろう。
そうこう悩んでいるうちに戻ってきたモンタンの傍にはさらに混乱させられる客人がいたのだ。彼に連れられてテントの中に現れたのはまたしても思いもよらない人物だったのだ。
大きなカバンに小さな体、良く揺れるボリュームのあるピンクの髪。フロイデンベルクアカデミアで彼女と袂を分かって以来、久しぶりに見るその姿、レア・ベッテルハイムだ。
モンタンの後ろを歩いていたレアはカルルの前に案内されると、モンタンの影からひょっこりと顔をのぞかせた。
「こんばんは、カルル元伯爵様。遅い時間の急な面会でしたが、御目通りかなえていただき光栄です」
仰け反る俺のことなど目に入っていないかのように、見慣れていた零れ落ちる様な、それでいてどこかに柵があるように感じる笑顔でカルルへ丁寧に挨拶をした。
モンタンに混乱させられた中での彼女との再会は何が何だか分からなくなってしまった。彼女とは最悪な別れ方をしてしまった。
消えてなくなるはずだったブルゼニウムの論文は連盟政府の手に渡り、だがその内容すら偽りで、さらにその後トバイアス・ザカライア商会の商売敵であるカルデロン・デ・コメルティオと共に研究をして……自分で言っていながらますますわからなくなってしまった。
机を挟んで向かい合うカルルとレアを交互に見つめることしかできない。
騙してとんずらと言う最悪な別れ方をしたのだ。険悪な空気になるのではないのかと思いつつも、混乱の中でもたらされたさらなる混乱が生じて、そこへ来てレアは俺が全く見えていないかのような反応をしたせいもあるはずだ。
綯交ぜの感情を中和してしまったのか、背筋を駆け抜けるのはただの驚きだけになっている。
「お久しぶりですね。ずっと昔、一度お会いしましたね。改めて自己紹介を。レア・ベッテルハイムと申します。本日は商会ではなく、わたくし個人でお伺いいたしました」
「トバイアス・ザカライア商会、派遣理事長、そして数ある商会内の保安警備部最古の組織『ヴァーリの使徒』副部長のレア・ベッテルハイムか。何のようだ?」
レアはカルルの言葉に驚き、笑顔になった。
「これはこれは、博識で。しかし、保安警備部の名前までご存じとは。私たちももう少し秘密管理を徹底しなければいけませんね」
「ヴァーリの使徒を我々が知らないはずもなかろう。余計なことは言わなくてよい。目的だけを言え。
聞けば貴様は今我々が捕らえているあの女剣士の親友らしいではないか。個人的に現れたというのは私に開放を求めにでもきたのか?
イズミとも仲間だったそうだな。北部支部の資金繰りを嗅ぎまわっていたヴィトーの監査員は我々には邪魔でしかない。残念だが逃がすわけがない。
力づくで取り返そうというのであらば、たとい商会が相手でも我々は容赦しない。
いや、貴様は今個人名義だったな。どうなったところで商会とは何の問題もないか。
仮に取り返せたとしても、北部支部に蓄えられていた豊富な資金は完全に我々の手中にあるので、逃げ果せて協会本部に報告したところでなんの意味はないのだがな」
僅かな一瞬、レアの視線が俺のほうと見たような気がした。
「おっしゃる通り、カミーユ・ヴィトーは私の古くからの友人ですし、この男性ともかつては仲間でした。
ヴィトー金融協会北部支部の監査が邪魔にしかならないからと言って、その監査を秘密裏に行っていたカミーユ・ヴィトーを捕らえてしまうのはどうかと思います。
友人を助けたいのはもちろんですが、今、私はたった一人です。多勢に無勢と言うものですね。命あっての物です。私も命は大事なので。
ああ、この隣の男性に関して言えば、先日仲間割れを起こしましてね。借金を踏み倒す輩の顔など二度と見たくないのですよ」
レアは丁寧に話している。まるでカミュの現在の状態を明らかに俺に対する説明しているかのようだ。
だが、それよりもだ。カミュがカルルに捕らえられているとはどういうことだ? 北部で休暇を過ごすと最後に連絡を受けていたはずだ。
思いがけないことにレアの方を思い切り凝視してしまった。
「では何を企んでいる? それ以外の用事が思い浮かばないのだが?」
「カルル・ベスパロワ伯爵、何をおっしゃいますか。企むというと聞こえは悪いですが、私は私の仕事をしに来たのですよ。少し商売のお話をしませんか?」
「何を売りつける気だ? 武器はもう必要ない」
「武器は消耗品ですぐ壊れる。戦うなら数が必要な物ですが、その癖どれだけたくさん作っても安くはならない。高くてよく売れますのでそれは残念ですね。
ですが、私が今日あなたに売ろうとしている物はそんなものではございません。今手元に無くて、言葉でしかつたえられないのです。
ぼんやりとしたものですが、手に入ればそれはよりはっきりする物。大きくまとめた言葉で言うなら、そうですね……。『未来』なんて言うのはいかがですか?」と言うと俺の方をするどく向いた。
俺は目を合わされると背筋が伸びるように仰け反ってしまった。
「ですが、残念なことに、今は私の商売敵であるカルデロン・デ・コメルティオのイズミさんがいらっしゃるのですよ。
私の考える画期的な商談をうっかり聞かれて、挙句横取りされたくはないので彼をここから追い出してもらえませんか?」
「ぬかせ。私を貶めた男をみすみす逃してたまるものか」とカルルは眉間にしわを寄せて、レアと俺を交互に睨みつけた。
しかし、レアは残念そうになり鼻をフフッと鳴らした。
「元伯爵様のたいそう立派な爵位であらせられる“伯”は、所詮はただの辺境伯という田舎の大将に過ぎないのですね。
その実力故に十三采領弁務官理事会から疎まれて地方采領弁務官職を追われたはずなのに、中央でのさばり自らの地盤を顧みようとしない世襲の采領弁務官たちと何ら変わらない先見の明のなさ。
結局、その程度ですか……。実力ではなく、ただ無能なだけでしたか。なるほど! 都落ちするわけですね」
レアは目をつぶり顎を上げると、額を自ら軽く叩いた。カルルは嘲る彼女をさらに強く睨んだ。
「私は爵位など必要性を見出せない。貴族制度などくだらない。故に私は名前についた貴族制度の残渣であるフォンやトゥを廃止した。貴様はここに何しに来た? 私を愚弄しに来たのか?」と言うと、レアはカルルをまっすぐ見た後に跪き、そして右手を胸の前にかざし恭しい態度をとった。
「おや、用件を尋ねられましたね? 未来を買いませんか、と先ほど申した通りでございます。カルル・ベスパロワ総統閣下」
跪いた彼女は流し目でカルルへ微笑んだ。そして、少しばかりの間の後、
「いえ、正しくは、“第二スヴェリア公民連邦国”総統閣下」