再結成……? 前編
鏡の中にはパッツパツに腫れた顔。頬を手で撫でて、そのまま口を覆いため息をつくとさっきまで飲んでいたかのようなにおいがする。女神に呼び出されるあの空間はいったいどこなのだろうか。精神世界みたいなのものなのだろうか。それにしては吐息は臭いし、体の中にはまだ酒が残っているようだ。
昇進祝いの後、どうやって戻ったのかは覚えていないが無事帰ってこられたようで、すこし気持ち悪いこと以外は何ごともない朝を迎えた。日本酒とそれ以外のアルコールを飲んで結果的にちゃんぽんになったことや量を考慮しても、寝起きの体内を支配する気持ちの悪さはそこまで強くないので、きっと付き合わせたことへの埋め合わせで女神が緩和しておいてくれたのだろう。
鏡越しに見える窓の外は晴れている。だからどうしたというのだ。今まで何度も晴れた朝をその窓から見ていたではないか。
二日酔いのむかむかとしたものとはまた別の、腹の中に小石をめいっぱい詰めたような嫌気。バイト先での日々がまるで嘘のような息苦しい朝だ。
本日よりいよいよチームシバサキの再結成。またここへ戻ってきてしまったのだ。再結成したところで何もすることは変わらずにまた再び惰性の日々が始まるのだろう。昼まで来ないようなリーダーのことだ。初日は学生の新学期の始業式みたいな挨拶だけになるだろう。
と思っていたが、集合場所には気だるさを吹き飛ばす光景が広がっていた。
なんと俺以外全員そろっているのだ!
それが目に入るや否やまさか遅刻したのだろうかと心臓が縮み上がり、慌てて時間を確認するが集合時間の10分前だった。思わずいつも反対側にいる時間にうるさいカミーユの表情をうかがってしまったが、久しぶりに見る無表情の中にいらだちは見受けられず、特に変わりはないので問題ないはずだ。
「お、おはようございます」
間に合ったが、一番最後に来るということになぜか引け目を感じてしまった。声がか細くなってしまう。
「おはようございます!イズミさん。お久しぶりですね!」
気づいたレアが素早く振り向き、いつも通りの元気のいいあいさつで返事をした。レアの声で俺の到着に気が付いたシバサキは、腕を組んで壁に寄りかかったまましかめた面をこちらに向けていた。
「さっそくダメだなぁ。イズミ。あきれ返るよ。ミカチャンよりもユッキーよりも誰よりも先に来るのが常識だよ?しかも酒臭いとはな」
事実を指摘されて喉から変な音がでてしまった。深いため息のあと、シバサキは組んでいた腕を開いた。賢者になった記念にでも買ったのだろうか、ビロードでできた襟の高い紺色のマントを付けている。似合っているのかどうかはさておき、久しぶりに聞いたそのあだ名たちは相変わらず耳障りで、耳に入るなり脳と脊椎を鷲掴み、ただでさえ気持ちが悪いというのに吐き気が強くなりそうだ。
全員がそろい、集まるとシバサキは
「まぁ仕方ないか。一人遅かったけど全員そろったことだし今日は今後の方針について話し合おう。もう新年度だし、僕も偉くなったんだ。今までどおりではいけないよ」
と仕方なそうに言うと移動が始まった。
この前シバサキ失踪時に三人で話しあいをした、集合場所わきのカフェに入った。
机を両手で強く叩く音がしたかと思うと、
「諸君!我々はこのままでいいのかね!?」
と席に案内されるや否や、シバサキは突然大声を上げた。遅れてかちゃかちゃと食器の揺れる音がしている。何ごとかとほかにいた客たちの視線が一点に集まった。
表情の少ないカミーユの顔がほんの一瞬、口をへの字に曲げて嫌悪にまみれた。目を丸くしたレアは口を開けてシバサキを見上げて止まっている。一番最後に席に着いた俺は完全に置いて行かれてしまい、きょろきょろと周りをうかがってしまった。
「我々は英雄としてここに立っている!いまこそ前進しなければならない!」
右手に拳を握りしめ力を込めるシバサキの口から小さな光の粒が飛びちっている。どうやら所信表明が始まったようだ。無駄によく響く大きな声に店内は騒然となり、こそこそと退避を始める周囲のお客たち。何ごとかと厨房入口で様子を見ていた店員がわらわらと駆け足で集まってきた。
「他のお客様のご迷惑になりますので」
そういってなだめられると、シバサキはぬっと小さい声で頷き、静かに席に座った。そして店員にアイスコーヒーを頼んだ。
異様な速さで出てきたアイスコーヒーをすすると
「何が言いたいのかと言うと、僕たちは今までなまぬるかったんだよ。これからは動かなければいけないんだよ」
店内の空調はなまぬるいどころか、何らかの意図をもった店員により俺たちの席だけ冷風に吹きさらされ、極寒になっている。
かっかと熱くなったのか、空調のことなど意にも介さず険しい顔をして俺たち三人を順番に見つめるシバサキ。何に対して動き出すのか、いまいち具体性にかけるような気がする。チームシバサキには勇者(本人は賢者を自称)と賢者がいる。俺たちはともに女神に『戦いを終わらせる』という使命を負わされ、生きる意味と力を与えられた立場だ。動き出すというのはおそらくその『魔王を倒し戦いを終わらせる』という使命を全うすべく、ことを始めるという意味だろう。
「そのためにだ。今日から五時の解散時刻後に残業を行います。正確には残業ではなく通常業務だけど。ミカチャンは大丈夫だよね。お父さんとお母さん説得しておいて。ユッキーはなんとかしてよ、その辺。賢者である僕が言うんだから上も文句は言えないでしょ?何か言われたら僕の名前出していいからね」
何かずれているような気がしてえっと声が漏れてしまい、二人のほうへ視線を送るとカミーユ、レア、二人とも一切口を開かず、そして表情一つ変えない。まるで呼吸まで止まったかのようだ。だが真面目に聞いているとは思えない。
はっきり言える。これは空気が死んだというやつだ。
様子をうかがう間もなくシバサキは再びしゃべりだす。
「二人とも納得してくれたのか。よし。ならば続ける。それでだ。イズミは休日なし。それからこの間の埋め合わせとしてこれからの給料はなし。みんなの目的達成までな。生活とかそういうのは知らないから。空いた時間でバイトでも何でもして勝手に生計立てて」
俺は耳を疑った。
目標達成まで無休で無給。空いた時間でバイト。それはつまり寝ることすら許さないつもりか。レアへの返済はどうすればいいのだ。そもそも、シバサキの言う俺たちの達成すべき目標とはなんだ。なぜ女神に与えられた使命だと明言しないのだ。もしかすると『みんなの目標』とはこの惰性にまみれた日々をシバサキの寿命が尽きるまで続けることなのか。色々なことが脳内を一瞬で駆け巡ったあげく、思考が停止してしまった。あっけにとられ口を開いてシバサキを見つめてしまうと強烈な視線が飛んできた。
「え、なに? 不服なの? そもそもさぁ自分が悪いのになんでこっちが面倒見なきゃいけないの。一日は何時間あると思ってるの? 24時間もあるんだからさ。それに本来は無休が当たり前なんだがな。今までが異常だったんだよ。僕だって昔からほとんど休んでいないんだから。もし万が一、ありえないが週一の休みが必要になった場合は事前に、少なくとも三カ月以上前、あーやっぱり半年以上前だなぁ。あらかじめ休むと僕に許可を取りなさい。まぁお前に大した用事ないから大丈夫だろ。あと体調悪くなっても病院行っちゃダメね。変な診断ついてサボられると困るから。我慢すればそのうち痛くなくなるし」
俺にはもはや人権もないようだ。
シバサキは話しながら少しいらだち始めたのか、指動かし机をたたたんと叩いている。
誰も、誰一人納得していないはずだ。レアもカミーユも俺自身も。もし納得できるような輩がいたら、今すぐ俺にわかるように説明してほしい。石のように固まった俺たち三人を無視して饒舌なシバサキはまだ続けた。
「みんな知ってるかい? 軍隊でよく言うやつあるじゃん。4タイプに分けるやつ。優秀で怠惰なやつ、優秀で勤勉なやつ、バカで怠惰なやつ、バカで勤勉なやつ。最後のやつは殺してしまえって話」
しゃべることに熱を帯び始めたシバサキは唾を飛ばし止まることを知らない。
「イズミはバカのくせにやる気だけはある。そこは認めてやろう。でも、一生懸命やるのはいいが結果が伴っていないのはチームとして一番必要ない人材だ」
背もたれに寄りかかり腕を組みながら、目を閉じ頷いている。
その顔に今すぐにでもアイスコーヒーをぶちまけてしまいたい。お似合いのマントにどれだけ洗っても消えないような茶色い斑点をお見舞いしてやりたい。テーブルの下で拳を握りしめ、食い込む爪で手のひらに痛みが走る。
「でも、たったそれだけを理由に排除してしまうのは筋違いなんだよ。人材なんてのは使い方次第だよ。だからイズミには適所にいられるようになってもらうためにそう判断した。いいな。僕はもうイズミを新人扱いしない。僕からの信用を得られたと思っていいぞ。キミはこれからなんだ」
お得意の褒め貶し(ほめげなし)だ。あえて二人の前で言うあたり、これは間違いなく俺への個人攻撃だろう。
俺たちが座っている座席はまるで別次元にあるようだった。依然として誰も何も言わないが、間違いなく腹の中にあるどろりとした何かを押し殺している。その殺気というのか、渦巻く負の感情がその一角を店内から、そして世間から切り取っているかのようだ。
ここで何か言わなければ、シバサキは肯定されたと受け取ってしまう。だが、シバサキが言っていることが支離滅裂で何を言えばいいのかわからなくなってしまったのは俺だけではないはず。
沈黙を肯定と受け止めるシバサキは満足げだ。
「よし、みんな納得してくれたようだな。それで申し訳ないんだが、僕はそのすべてにつきあうことはできない。偉くなったから特別な人に呼び出されることが多くなってしまった。イズミはクズだから僕がいないとサボるから、ミカチャン、ユッキー、二人でしっかり見張っていてくれ。今日もこれから会わなければいけなくてな。僕はいなくなるがしっかりやること、では!」
そういって勢いよく立ち上がると、ご自慢のマントを大きくひるがえさせて使命を持ったような顔立ちで颯爽と店から出て行った。
彼だけが頼んだアイスコーヒーの伝票はそのままに。
嵐が去った。いや正確には嵐の真っただ中に突入したのだ。
残された俺と二人、時が過ぎても何を話したらいいのかわからないのは皆同じで、しばらくの間遠くのほうから食器がこすれあう音や、表通りの雑踏だけが聞こえていた。シバサキがもたらしたこの一角の異次元はさきほどの殺気から変質し、完全に無となった。
そして、誰かが頼んだアイスコーヒーに残っていた氷が解けだして、カランと音が聞こえた。
「耐えましょう」
口火を切ったのはレアだった。
「私はそれには賛成しかねます」
すかさずカミーユが立ち上がる。音をたてまいと抑えていたのか、机に着いた両手は打ち震えている。レアはカミーユに目をやり、少し睨みつけるように
「カミーユ、落ち着いてよ。それに、ね?」
と静止した。何か含みのあるものに気が付いたのか歯を食いしばるカミーユは自分を落ち着かせるためにゆっくり目を閉じた。そして席に座り腕を組んだ。
それを確認すると鋭いまなざしでレアが正面を向いた。
「あくまで私の意見ですが、間違いなく何かあります。イズミさん、私が補償しますから耐えていただけませんか」
無休無給に耐えろというのか。座っている上体が後ずさりしてしまう。
さすがのレアの意見でも今回ばかりは受け入れられないかもしれない。給料なし、休日なしで働けというリーダーの何を考えて耐えろというのか。シバサキは間違いなく、俺への個人攻撃をしているに違いないのだ。
すぐにはい、とは言えず、渋い顔をしてあ、えーと歯切れの悪い返事をしてしまう。
「お願いします」
俺の表情を見たレアは何かを察したのか、椅子から立ち会があると俺の前に来て深々と頭を下げた。
「イズミさん、必ず損はさせません。何かあれば絶対に補償をします。だから、お願いします」
落ち着いたはっきりとした物言いだ。そして頭を上げたときの顔は真剣そのもの。この子の真剣な顔は二度目だ。一度目は橋を落とした時だった。結果として覚えていないにせよ俺は拷問を受けた。
また同じように拷問を受ける事態が起こるのではないだろうか。その結果で失うものは今度こそ命の可能性もある。それを補償するというのはリスクが高すぎる。
それとも、もし今ここで俺が拒否をすれば、きっと自分以外の誰かが俺と同じ思いをするかもしれない。それがレアかカミーユか、それとも知らない誰かが、それはわからない。
不幸な結果が俺とこの二人以外の誰かに降りかかればいい、そしてそれを俺たちが知らなければそれでいい。どこで誰がどうなろうと知ったことではない。
だが、本当にそれでいいのか。いいはずがない。考えれば考えるほどに胃の締め付けられるようだ。自己犠牲なんてものではない。自己犠牲と言う名の自己満足はしたくない。ただ、嵐の最前線にいてそれを止められる唯一の存在は俺かもしれない。
やるしかない。鼻から大きく息を吸い込んだ。
「レアさん、わかりました。正直なところ、怖いし嫌ですが耐えてみます。始まっていないことだから現実感が無くてあとで後悔して泣きついたら、ごめんなさい」
返事を聞いたレアの表情からこわばりがとれていく。
「イズミさん、ありがとうございます」
少し声が震えているような気がした。
頭を下げたり、声を震わせたり、そうまでしなければいけない、彼女の言う『何か』とはなんなのだろうか。
隣にいたカミーユは硬く組んでいた手を開き、前のめりになった。
「イズミ、レアの判断は間違いではありません。考えもなしにただ耐えるだけなど私の知るレアはしません。唯一無二の友である私が言うのですから」
「カミーユ、唯一無二だなんて。恥ずかしいな。でもありがとう」
両手の指を合わせ尖塔にして唇に押し当てるレアは頬を染めている。この二人は本当に仲がいいのだな。しかし、仲良しタイムはしていられない。
では、これから何をするのか、作戦会議でもするのだろうか。
「これからどうしますか?」
「イズミさん、いきなりですがちょっと席外してもらえませんか?」
へ、と気の抜けた声が出てしまった。
「イズミは知らないほうがいいことを話し合うので。と言うと聞こえは悪いですが、状況が落ち着き次第説明はいたします」
何を話すのだろうか、気になるが店員にお願いして俺だけ離れた席へと移動した。
だいぶ待たされたのち、もういいですよとレアが離れた別のシートに移動した俺を呼びに来た。戻ると正面に座るカミーユとレアが話を始めた。
「さっそくこれからについてですが、イズミ、あなたが仮のリーダーとして指揮を執ってください」
「イズミさん、私はさっき言いましたね。あなたの権利は補償します、と。業務が始まれば当然ながらサポートは行います」
俺は別に立場が欲しいわけではない。というよりもむしろやりたくない。先ほど意を決して受けてしまったゆえに断りづらい状況だ。二人ともやりたくないから俺に回した、そんなことはこの二人は絶対にしない。それどころか、任せられないと言って率先してやりそうなくらいだ。おそらく何か考えがあるのだろう。
その後、具体的な役割分担が二人から説明された。
実家の銀行業を手伝うこともあり、なおかつエイン通貨、ルード通貨ともに精通しているカミーユが金銭の管理を行うことになった。今まで報酬はシバサキが受け取り、レアが管理していた。今後はそうではなく、カミーユが受け取り、誰かに渡さずにそのまま彼女が1エイン/1ルード単位までで管理を行う。もちろん、シバサキがやっていた給与管理もだ。
「うるさいのは時間だけではありませんよ」
商会のエリートとしてマルチタスクなレアは主に書類整理だ。職業会館への書類や依頼者への連絡、そして新たに追加されたシバサキに見せる報告書等を管理する。
「世の中、書類よりハンコで動いているので、お任せください!」
そして、リーダーに任命された俺は何をするのかと言うと、ある程度の活動方針の決定だ。たとえば、どのような依頼を受けるのか、活動時間についてなどを管理することになった。
シバサキは一日の任務をこなす量を五件以上と指示を出してきた。その時点までで一日に受けていた任務は一件だったので、五倍に膨れ上がったのだ。そしてかなり無理のある設定をした本人は行方知れずだ。
俺は一日の依頼ノルマを達成するために、依頼の難易度をかなり下げることを二人に打診した。何かの護衛や駆除、戦闘行為の任務が多かった今までのようなものではなく、迷子探し、行方不明の動物探し、手伝いなどと言ったすぐに終わる依頼を重視するようにした。本来の目的から大分離れた依頼に二人とも本当のところどう思っているのかはわからない。だが、嫌な顔一つ見せないで指示ですから、と受け入れてくれた。
「というわけでみなさん、新しいリーダーです。よろしくお願いいたします」
なぜだろうか。
不透明で何をしていたのか全くわからなかったシバサキの運営のころとは違い、レア、カミーユさえいれば俺がリーダーをしていてもしっかり回っていくのではないかと勘違いしてしまいそうだ。それはただ単に今まで運営に参加する立場にいなかっただけで、実際にやり始めたからそう感じているだけなのかもしれない。
気がかりなことがある。
これからもシバサキはたまにではあるが顔を出すだろう。そのわずかな時間に彼が何を言い出すかわからない。だから音声での記録を撮ろうと考えた。
だが、それはレアにもカミーユにも相談するつもりはない。彼女たちを信頼していないのかと思われるかもしれないが、そんなつもりはなく、それよりも万が一見つかってしまったときに彼女たちを不要な厄介ごとへと巻き込まないようにするためだ。
今回のように何かしらの意図をもって記録を取るときは誰にも悟られることなく隠密に自分の中だけで完結させる、それは絶対だ。もし決定的な証拠が得られなかった場合は俺のみが知る闇に葬るだけだ。
「ぼいすれこーだー?なんですかそれ?」
上目づかいのレアが首をかしげて俺を覗き込んでいる。話し合いの後、店を出てレアにボイスレコーダーがあるかどうか聞いていた。巻き込みたくない、と言いつつもやはり道具に関しては一番詳しいであろうレアに聞いてみるのが一番早いはずだ。
しかし、やはりボイスレコーダーはわからないか。
「音声とかを記録する機械みたいなものです。最近拠点の近くに野良猫が出てその声を取りたくて、すいません。完全に趣味に使うものでして、へへへ」
とっさにしてはよくできた嘘だ! 我ながら感心してしまう。
「音声記録ですか。ネコさん、かわいいですものね。イズミさんはネコ派ですか?機械ではないですがいいものがありますよ。どこかにあったかな?」
頬に指を当て考え出したあと、レアは体と同じくらいの鞄を地面にどすーんと置いて、中をごそごそと漁り始めた。
しばらくしてあ、ありました、と言うと緑色の光沢のあるすべすべした丸い板を出してきた。板の真ん中あたりにはYの字が書いてある。
「ここの二股に分かれた記号のあたりを押すと録音できます。イズミさんの杖とも連動できて遠隔でも操作できますよ、はいどうぞ」
音声記録装置をレアは差し出しているが、受け取るわけにはいかない。鞄から苦労して出させたとしてもだ。
「あ、いえいえ。どんなものか教えていただければ俺自身で揃えますよ。たかが趣味ですから」
両手を振って断るとレアはそれを引っ込めた。
「そうですか。他所でもうちの商品買ってくれるとうれしいですね。ふふふ」
そして始まった日々は熾烈を極めた。
平日はノルマを達成すべく、さまざまな依頼を素早くこなすことに徹し、五時以降にふらりと現れ活動している俺たちの様子を確認して「うん」と頷いたあとすぐに姿を消すシバサキのために意味のない残業をする日々を送った。五時以降の内容はとりあえずぼんやりと焚火を眺めたり、たまに訓練するふりをしたり、整備と言う名目で武器を眺め続けたりだ。ただぼんやり過ごすだけでもかなり疲れる。
シバサキの監視の時間は一定ではなく、7時ごろ現れた日があるかと思えば、23時ごろ現れる日もあった。最初のころ、来るのが遅いと知らずに早めに解散をしたとき、烈火のごとく叱責を食らった。俺だけが。その時は幸いにも髪をごっそり抜かれるだけで済んだ。
土日は俺一人での活動をした。平日と違って夕方ごろ、だいたい6時ごろにラフな格好でシバサキは監視に来る。ではそのタイミングだけやっているふりをすればいい、と言うわけではない。もちろん簡単なものではあるが依頼を昼間にこなしていた。書類整理と報酬管理において土日の蓄積分でレア、カミーユへの週明けの負担が増してしまった。
レアとカミーユに土日来させるわけにはいかないので、俺は二人にくるなと指示をした。それでもカミーユは「私も出ます」と引き下がらなかったので「上司命令です」といって無理やり休ませた。
もしかしたら、カミーユが来ると言ったのは俺のためではなく、月曜日の負担を少しでも減らそうとしていたのではないだろうか。やけになっていたところもある。だから彼女の意図するところに気づくことができなかったのかもしれない。
一週目、二週目、日が過ぎていくうちにシバサキが現れる時間帯を把握できるようになり、その時間さえ頑張っているふりをして、あとは依頼をいい加減にこなすようになった。しかし、依頼は依頼であり、難易度や内容によって質に優劣をつけずに行わなければ依頼者に失礼で、ましてや俺たちはそれでお金をもらっている。そうだとわかっていたとしても、とにかくノルマ達成のことしか考えられずとりあえず終わらせるという状況になっていった。そして、もともと低く設定していた難易度も日に日にさらに下がって行った。
多忙であり、それまでの惰性の日々ではない。でも、何かがおかしい。
新体制後初めての給料日、曇り空の金曜日の朝のことだ。
朝の集合場所でカミーユがいつもの無表情ではなく、ややひきつったような顔つきをしている。待っている場所も目立つ場所で、どこか落ち着きなくそわそわとあたりを見回していて早く見つけてほしい様子だった。
たまたま来る道すがら出会ったレアと集合場所につくと、カミーユと目が合い、あっと口が動いたかと思うと駆け寄ってきた。
「イズミ、レア。おかしいことがあるので来てください」
どういうことか、とレアが訊ねると、落ち着いて話したいのでカフェへ案内され、席に着くとカミーユはやや早口で話し始めた。
依頼の質は数をこなすためにだいぶ下げた。俺自身も自覚はしていたが、難易度もだいぶ下がっていることを指摘された。しかし、カミーユが担当になり受け取った報酬の計算をした結果、シバサキが管理していたころに比べ、諸経費を引いた後にもかかわらず手取りの額が倍以上に膨れ上がったとのことだ。始まって数日で違和感に気づいていたが数をこなすことでもらえる額も増えているのだろうと疑わなかった。しかし日が経つにつれ帳簿の額が次第に大きくなったので昨年の活動休止前の明細を調べ、それと比較した際にあまりにも差があることに驚いたそうだ。
机の上に提示された書類の束に記載された額は俺が見ても明らかにおかしい。シバサキがどれだけどんぶり勘定をしていたのか、想像するだけで背筋が凍る。
「金額の差が10エイン程度ではないのです。100000エイン以上の差が出たのは異常事態です。もちろんのことですが、チェックは厳重に行っています」
「これは一度検証しなければいけませんね。商会がらみでないことが仇になりましたね。もしそうなら最初の週で監査が入りますから」
書類を交互に見ながら話を聞いていたレアが眉をひそめている。
以前の体制と金銭面で変わったことと言えば、報酬の受け取りはシバサキからカミーユ、そしてその後の管理はレアからカミーユへ移ったこと。
もしレアがピンハネをしていたと疑うならば、おそらくカミーユはこのことを俺にしか話さなかっただろうし、それ以前にレアが管理を行うと必然的に商会が絡むので信頼度は高い。反対にカミーユがピンハネをしていたら、手取りが増えるという事実は矛盾するし、まれにではあるが銀行業務を行うこともあるカミーユがミスをするとも考えづらい。
この不可解な金銭の急増は今までのことなかれ主義ではもはや無視することができず、レア、カミーユ、シバサキの三人分には今までどおりの額を受け取とらせ、±ゼロになったとシバサキには報告書をだし、報告書には記載されていない浮いた金額のうちから俺の給料を引き、残りは使途不明金としてレアがもつ『不可侵の金庫』に封印することに決定した。
給料日が土曜日になるので、本来は金曜日に支払われるべきものを週明けまで持ち越し、解決策を見出すべくシバサキを除く三人で作戦を立てた。話し合いの結果、以前シバサキが指揮を執っていたころに受けた依頼をもう一度受けることにしたのだ。できる限り安定していて定期的に行われているものだ。以前はシバサキが受け取っておりどれほどの報酬が出るのかは事前にわからないので、依頼完了後にカミーユが報酬の変動について尋ねることにした。
週明けに給与だけを受け取りに来たシバサキがいなくなったあと、タイミングよく同じ依頼が出された。参加者は四人で申請するなど、できる限り以前と同じ状況を作り上げて依頼を受けた。
そして終了後、カミーユは報酬受け取り時に受付にたずねると、変動はほとんどないと返ってきたそうだ。
貰った報酬の額をレアの記録と参照すると、レアの手に渡る前の段階でおよそ半分ほどシバサキにより天引きされていたことが発覚した。どんぶり勘定などではなく、完全なる不正受給。明るみに出たのはこの一件だけで、そのほかの依頼ではいったい何パーセントハネたのかはもはや調べようがない。
シバサキはたまに参加する依頼終了後に「あーいいよいいよ。僕がやるから! みんなに迷惑はかけられないよ。それにしてもイズミはダメだなぁ。そこは、いえいえ俺が! とくるのが普通なんだけどなぁ。でもお金だからちょっと任せられないな」と頑なに報酬を受け取る役割を譲らなかった。もはや疑いの目は誰にも抑えられない。この男は間違いなく、報酬を受け取りの段階で半分ほど引き抜き、その後さらに給料まで受け取っていたのだ。しかし、無理な生活に疲れ始めた俺、レア、カミーユの三人にはそれを糾弾する体力もなく、たまに現れるシバサキを恨みがましく睨み付けることしかできなかった。
しかし、その後もシバサキは糾弾されることはなかった。
この世界には労基も組合も、法律もない。つまり、誰も彼を罰さないのだ。
金の切れ目が縁の切れ目。なり始めた不協和音。
もはやチームとして成り立っているかどうかも怪しくなってきた。
おかしい。俺たちは何かおかしい。
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