紅袂の剣騎士団 第十四話
「パン屋には素敵な娘さんがいますね。あの情熱的な紅い色は何を食べればいいのでしょう。紅の八塩は風を受けて輝けばなお洋紅色。巷では珍しい濡れたカラスと言われる私の髪色とは大違い」
と右手うなじに当て、自らの束ねた黒い髪のあまりをうっとりと搔き上げる。流し目で俺を見つめると、指に絡めた髪を口元までいざなう。
俺はその話ぶりに毛が逆立ち、首が伸びるような気がした。何かとても嫌なものを掴まれたような気がしてはっとさせられた。しかしクロエは構わず続けた。
「ああ、あの髪はなぜあんなに美しいのでしょうね? 私も女として嫉妬に狂ってしまいそう」と小首を傾けるとねっとりとした口調で言いながら目を細めている。
「狂って、狂って」
肩からするりと流れ落ちるように腕が下におろした。次の瞬間、クロエは目の前から消えた。
空気が何かに押されてふわりと動くのを頬で感じると、耳元で「殺してしまうかも」と何かが囁いた。
それを追うように見た視線の先には、クロエがいた。背筋が凍る間もなく目にもとまらぬ速さで間合いに入られてしまったのだ。
「切り刻むのは髪だけでいいかしら? 足りませんか? 腕、足、乳房、それとも首かしら」
ローブの下から伸びた白い手が開かれ、まっすぐ顔へと向かってくる。捕まれたら終わりだ、すぐさま思い切り手で振り払うと、クロエはすぐに飛びのいた。濡れたカラスは夜闇を飛び越え、その足が地につくとスラムの汚れた川が水を跳ねる音を立てる。
「ふざけるな! あの子は関係ない!」
全身が心臓になったかのように鼓動が速まり、手に汗はあっという間ににじんだ。落としてしまわぬように杖を強く握りしめ、再びクロエの方へと先を向けた。
「ならば杖を収めてください。私は職業柄、構えられていると先手で攻撃しないと言いきれないので」
クロエは右足を少し前に出して低い姿勢をとった。左手でフードの前を大げさに除けると手を伸ばし、馬酔木の杖を掴もうとしている。その手は攻撃衝動を抑えているのかひくひくと痙攣している。
「アニエスには手を出さないと誓え! あの子は関係ない」
表情を変えることなく戦う事への本能に抗うクロエの姿は不気味で、俺は思わず後ずさり左足が後退気味になってしまった。たった一言で逃げ腰にされてしまったのだ。瞬きのその僅かな隙さえも恐ろしい。
「関係ないかどうか、それはあなた次第ですよ。本当に無関係なら名前の一つすら出てこないはず。ただ杖を下ろせばいいだけなのですから。
あなたは私を捕まえることなど容易でしょう。ユニオンもスパイを捕まえたと声高らかに発表するでしょう。
ですが、捕まれば私は何も言わずに自害します。捕まった後取り調べの最中にでものんびり自害します。
すると『嗜好品の買い付けをしていた民間人』が取り調べ中に死亡したと連盟政府はユニオンを責めるでしょう。
別の可能性としては、あなたがこの場で私を殺害してしまうと、おそらくなかったことにされてしまうでしょう。ですがそれは可能性としてありません。いずれにせよ次の支柱が動きます。代わりはいくらでもいるので」
「さっきも言ったが、いつまでも舐めてもらっちゃ困る。もし、本当に俺がこの場であんたを殺したとしたら? そしてあんたから探った情報を基に聖なる虹の橋を根絶やしにしたら?」
クロエは下を向くと今度は肩が震えだした。それは徐々に大きくなり全身に広がると、彼女はガバリと勢いよく顔を上げた。そして、笑い出したのだ。
「あなたに? 無理でしょう! 人が殺せますか?」
さらに上を向いたまま、「たかだかエルフを殺したくらいで、狼狽して疲弊して、自らの力で巻き起こした炎が恐ろしくて暖炉の火にすら近づけなるような、優しいあなたに人は殺せるのですか?」と大声を上げた。
それからひとしきり笑った後にピタリと動きを止めると、「どうしてもいうのであらば、無責任なあなたの戯言にお付き合いしますが? その後のことは知りませんよ。私は死んでしまうのだから」とさらに手を杖に近づけた。
無理だ。殺せるわけがない。はったりでどうにかなる相手ではないことを考えていなかった。
俺にとってクロエを捕まえることは、移動魔法を使えば不可能ではない。幸いにもスラムには人がいないので巻き込む心配もない。
だが、ここでそうすれば他の聖なる虹の橋が動いて、アニエスに、モギレフスキー家に危害を加えてしまう。家には力を失ってもなお強い英雄のアルフレッドも、実力は不明だが恐ろしく強い時空系魔法の使い手のダリダもいる。
しかし、聖なる虹の橋がどの規模で動くかわからない。モンタンもそうであるように、かなりの手練れの集団であることに間違いはない。どれほどいるかわからないが、数が多くなれば周りへの被害も図り知れない。
さらに、モギレフスキー家、ブルンベイクへの被害も大問題だが、捕まえた後にクロエが自害し、それが大事になってしまうことも問題になる。連盟政府の付け込む隙になってしまうのだ。
クロエは民間人という立場で来ている。嗜好品の買い付けにきただけの無抵抗な民間人を捕縛殺害、非人道的であると解釈して、ユニオンへ付け込む材料にする可能性もあるのだ。
大きな戦いがまだ起きていないが極度の緊張状態にある二国間では、民間になればなるほどその死の一つが大きくなる。
この間発見されたデミトリエヴィッチの死体は、友好的になりつつあった共和国との間に亀裂をもたらした。それは相手が共和国だったから亀裂で済んだのだ。だが、一方的に分離独立を宣言を言い渡した連盟政府が相手では、取り返しのつかないことへつながりかねない。
ここは引き下がるしかないようだ。
俺は立ちはだかるクロエから目を離さず、クソが、と悪態をつき杖をゆっくりと収めた。するとクロエも動きに合わせるかのように杖を仕舞い、「物分かりがいいようで助かります。ではお話をしましょう」
と落ち着きを取り戻したようにローブを引っ張り、あちこちに寄った皺を正した。
「大したことではありません。先ほども言った通り、独立記念式典の爆破テロに連盟政府は直接関わっていません」