やがて消ゆもの 最終話
しばらくその後ろ姿を見ていると、突然女神が振り返った。その瞳は嬉しそうに輝いている。
「あれぇ? ねぇもしかしてさ、私がいなくなると寂しいの? 優しい子ねぇ」
「いや、違っ! 別に寂しわけじゃ! だって、ホラ、まだ、終わってないじゃないですか!」
ニマニマしながら、んふー、と鼻から息を漏らすと「素直じゃないわねぇ」とタバコを口にくわえるとそこにあるであろうベランダの柵に寄りかかった。
「大丈夫よ。あんたはまだ忘れてもらっちゃ困るから」
にやついた顔はいつの間にか戻り、言い終わった後の顔に表情は無い。
「でもあんた、気を付けなさいよー。何回も言うけど、町中で女神がーっていうと完全にやべー奴扱いされるわよ」
「もはや自分でもまともだとは思えませんけどね」とつま先を見ながら言った。「でも、女神さまはいいんですか……?」
すると人差し指を顎に当て上を向いた。視線も何もない上の暗闇向かっている。
「うーん、そーね、まぁ仕方ないわよ。忘れられる存在だから」
続けて何かを思いついたようにのぞき込むようになると、「じゃあんたさ、日本で生きてた頃、神様が目の前に現れたことあった?」と尋ねてきた。
「今、いるじゃないですか」
「今? 今はノーカンよ。つか、“日本で”っつったじゃない。バカ」
「日本では、なかったです」
「あんたんとこ、もともとあんまり宗教国家ってワケでもないからね。それどころか、大っぴらに言うと白い目されるしねぇ」
「神秘性の観点から言えば、ずけずけと現世に現れてあーしろ、こーしろっつー神様も信徒から反感買いそうですけど。そういうのってそれぞれの心の中にあるっていうイメージでしたね。いないけどいる、みたいな。信じたければ信じれば、みたいな。
確かに、それで心持が強くなれるならば、根底から否定されるのはどうかと思うし、あってもいいんじゃないかとは思います。神様の捉え方も教義やらで一応統一されていますが、個人個人の中に存在するものはそれぞれなんじゃないでしょうか」と改めて答えると、わかってるじゃない、とでも言いたげに目を見開いた。
「あんたはちょっと宗教に夢見てるっぽいけど。まぁ、間違いじゃーないわね。つまり、そういうこと。前も言ったけど、名実ともにあたしは心の中の住民になるワケ。あんたの言うとおりね。
あたしら神が顕現しちゃってる歪な世界が元通りになって、そこにあっても見ない者は見えなくなるだけよ。変態芸術家の妄想を具現化した宗教画の中で、綺麗で素晴らしくて理想的なナイスバディで水も油も弾いちゃう玉のお肌の女神さまになるの。あたしはそうだと思われればそうなるから、別に困ることはないんだけど」
「そうですか……」
女神はまるで消えてなくなることは折り込み済みのように話していた。少し冷たいような、その話ぶりに短い返事しかできることがなかった。
下を向いていると、「あーもぅ、うじうじしてんじゃないわよ。わかったわよ。いなくなっちゃうの寂しんでしょ? 素直じゃないわね。あんたからはそんなに簡単には消えないわよ。まだやることいっぱいあるんだから。他の連中が忘れてるのは、必要がもうなくなったからってこと。あんたはまだ必要だから消えないわよ。何回も言わせないで。こっちも終わる前に忘れられても困るし。あたしが言えるのそんくらい。どうしてほしいの? まったく、面倒くさい!」と少し迷惑そうに言った。
まだ忘れてしまうことはしばらくなさそうだ。それを聞いて少しだけ安心して、肩が落ちて鼻から息がでた。
でも、もし終わらせることができたらいずれ忘れてしまうのだろうか。
できることなら早く終わらせてしまいたい。育っていく世代のすべてが優秀ではない。争いはいずれまた起きる。だが、つかの間平和であってもマリークやアンヤ、シーヴ、その他の次の世代にまでほころびを残してはいけない。
そうなると明確な終わりとは一体どこなのだろうか。パワハラ体質だが尊敬できる上司なので忘れてしまうのは寂しい。そういう理由だけで、記憶を無くしてしまっていいのだろうか。
女神はタバコをコンクリに押し付けて消して携帯灰皿に捨てると、部屋(のあると思しき方向の暗闇)に姿を消した。そして大きめの紙の箱を持って現れたかと思うとひょいと渡してきた。
思わず受け取ってしまい、女神と箱を交互に見つめていると、女神は「ピザ、食べてきなさいよ」と言いながら今度は丸椅子を出してきた。箱を開けると二枚だけ残っている。サルシッチャとキノコのピザはまだ少し温かく、匂いが漂うとよだれが出てしまった。
「あんたも、まぁ、平和になったらいずれ忘れちゃうわね、きっと」
持ち上げようとした手が思わず止まりそうになった。でも聞こえないふりをして構わずにピザを食べた。聞こえなかった。俺は意地でも忘れない。
それからしばらく、スター〇レックディ〇カバリーはどうなったとか無駄話をしているうちにいつのまにかベッドに戻っており、カーテンの隙間からラド・デル・マルに注ぐ爽やかな朝陽が漏れていた。
いつこちらに戻ったのかは覚えていない。
しかし、体を起こしてむくんだ足を触って、それからカーテンを開けてもなお、ピザのキノコがほんのりにがかったことはよく覚えていた。