やがて消ゆもの 第五話
俺はヤシマのその言葉に何かもやりと頭が曇った。顔に出ていたようでそれを見たヤシマはにやけだし、「眼鏡フェチのお前好みっぽそうなだぜ」と冗談めいた。
確かにアニエスのメガネを執拗に褒めちぎってはいるが。だが、今この場で俺を靄つかせたのは俺のフェチズムのせいではない。クロエという名の黒い髪、と聞くとどうも胸騒ぎがするのはこれまでの経験からだろう。気のせいだったとしても、クロティルド・ヌヌーであるつもりで動いたほうがよさそうだ。
「うっせ」と冗談を払いのけるように手を動かすと、ヤシマは笑った。
「ユニオンの大英雄様のイズミにご挨拶でもと思ったけど、いないんじゃ仕方ねーか。そういや、アニバルにも会ったぜ。シルベストレ家の屋敷で金髪ロリロリしい女の子のお世話係してた。
なんでも、一昨年の年末にヘマが引き取った時にお互い孤児で境遇が同じだから懐いたんだとさ。イヤ、マジで可愛い子だぜ? 黄色の魔石をずっと手放さないんだよ。家族の形見らしくてさぁ。見かけた時もぎゅっと握ってたんだよ」
ヤシマの話はなぜだがどれも聞いていてソワソワするのだ。不快なわけではないが何か引っかかることが多いのだ。
「そうか」
そのたびに顔に出てしまう気持ちにいちいち突っ込まれるのは煩わしい。ん、と頷いて、「アニバルも元気そうでよかった。今後の心配事はロリコンのヤシマが捕まることだな」と顔に出てくる前に俺は返した。
「なっ!? ちげーから。父性愛だよ。子育て経験ないおめーにゃわかんねーよ! はっ!」とヤシマはそっぽを向いた。
「母性愛は無償、父性愛は条件付き。我が子の父知るのは母のみ、っと。まぁいいか。そういや、日常会話には問題ないか? なんか話辛いとか大丈夫だな?」
以前勇者たちが力を失ったとき、ヤシマには能力を残してもらおうと女神に掛け合ったが結局それは叶わなかった。
ヤシマだけ特別ということに若干の不平等さを感じていなかったわけではないので、分け隔てなく全勇者たちかの能力が回収されたことにほんの少しだけの安心感があったことは否めない。その回収された数ある能力の内に万能言語能力も含まれていた。
最初こそ、要するに転生当初、俺もヤシマもコミュニケーションは能力頼りだったが、会話を繰り返して行くうちに知らず知らずの脳内で処理して身に着けていたらしいので、突然話せなくなるという事態には陥らなかった。だが、当たり前にあったものが急になくなると副作用があるのではないだろうか。
俺が少し心配だったそれを尋ねると、口を開けて黙り込み不思議そうな顔になった。
「会話って……。これまで通り普通に話せてるけどなんかあるのか?」
「いや、実は言語能力なんだけど、女神に貰ったやつ残してもらってないんだよ」
正直なことを言ってしまった方がいいだろう。もう読み書きに不自由はしていない様子だ。怒るかもしれないが、俺は思い切って本当のことを伝えた。
「なんだ? お前、その女神って?」
しかし、ヤシマは予想だにしない回答をしたのだ。
「え……。いや、女神だよ。俺たちを勇者にしたあの女神」
何かがおかしい。苦笑いをするも、ヤシマは表情を変えない。不安を覚え、さらにそう尋ね返すと信じられないような答えが返ってきた。
「何言ってんだ? おれたちを勇者認定したのは商会の連中じゃねぇかよ」
ヤシマはより一層心配そうに俺を覗き込んだ。
「でも移動魔法とか使えなくなったから突然はく奪とか言って最悪なことしたじゃねぇか。お前だけはよくわかんないけどまだ使えるみたいで、それでだいぶ他の元勇者から恨まれたのも忘れたのかよ」
「移動魔法って、全勇者が使えたわけじゃないだろ? 元々使えなかった奴は勇者じゃなかったのか?」
「20年位前、おれたちがこっちに来る前だから細かくは知らないけど、制度が変わって使えてほうがいいみたいなのが追加されたって話じゃなかったのかよ?」
続けざまのヤシマの言葉に立ち眩みがした。勇者認定をしたのは商会? そんなはずがない。俺たちを異世界に連れてきて能力を与え、勇者にしたてあげたのはあの女神のはずで一応特別な立場だったはずだ。それが今では、ただの一制度上の立場でしかない。
ヤシマは忘れてしまったのか? それともドッキリでもしているのか?
「お、おい、冗談だよな!? お前、女神のこと忘れたのか?」とヤシマの肩を両手でつかんだ。冗談だと思いたく、口角が引きつるようだ。
だがヤシマは眉間にしわを寄せて、「な、なんだよ!? 女神ってお前、あれか? こっちの世界で崇拝されてるギリシャ神話と北欧神話の神様のどれかか?」と迫るおれから逃げるように首を後ろに下げた。
「落ち着けよ。こっちの世界にもなんでその二つの神話があるのかはおれも最初は混乱したけど、いくら日本が恋しくても元いたとこの神話にすがるのは間違ってんぞ?」と不安な声を上げた。ヤシマの様子を見る限り嘘をついている様子はない。
確かに、最近あの女神に会うことはめっきり少なくなった。
まさか、本当に幻だったんじゃないだろうか。そう思うと何かが抜け落ちたような、それでいて胸が締め付けられるような感覚に陥って、力が抜けた。
あ、ああ、と詰まるように答え、肩から手を離した。すると今度はヤシマから肩を横からパシッと叩かれた。
「おい、しっかりしろ? 色々やり過ぎて疲れてんじゃねぇのか? どんだけ他の勇者が恨んでもな、お前のやってることは少しも間違っちゃいねぇんだから。ま、少し休むんだな」と心配そうに眉間にしわを寄せている。
「そ、そうする」
どうやらヤシマは完全に女神を忘れて、最初からいなかったような状態になっている。
以前会った時に、女神は文字通りの神話の存在になる、と言っていた。それがこうして現実になったのだ。おそらく他の元勇者どころか、にわかに女神の存在を信じていたレアも懐疑的ではあったが否定はしなかったカミュもきっと忘れているのだろう。これまでも地上で女神を見たことはあまりなかった。
だが、それでも自分以外の心の中から消え去っているのは悲しい。オージーとアンネリのパーティーに参加していたことも消えてしまったのだろうか。聞けば済む話だが、怖くて聞く気にはならない。
自分だけが覚えている。知っているのではなく覚えている。それはとてつもない孤独だ。知識は一人だけが知っていれば優越感に浸れるが、記憶は共有されなければどれだけ幸せだったことでも苦痛でしかない。