真冬の銀銭花 第十二話
「カミュ! 起きてよ! 逃げるんじゃなかったの!?」
冷たい地面にうつ伏せに倒れたカミュを揺すっても起きない。立ち上がってくれない。
そうしているうちに「やってくれたなぁ。カミーユゥ」と軍服に身を包んだママが杖を持ちながら近づいてきた。まだ遠くに見えているが、姿ははっきりと見える。表情はいつも通りで怒っている様子はない。だけどその姿は怒りを押し殺しているように見えてますます怖くなった。
「ママ! やめてよ! 殺さないで!」
必死で叫んだけど何も言わなかった。そして立ち止まらないで近づいてくる。このままではカミュが殺されてしまう。そう思ったときに僕は杖を銃の持ち方で構えていた。
でも、引き金に人差し指をかけることができない。かけようとすると手が、腕が、全身が震えだす。
もし、僕の撃った魔法がたまたま強いものが出てしまったら? それがもしママに直撃して大怪我をさせてしまったら?
そう考えると撃てない! 僕はカミュやイズミのように強くない。だったら逃げるしかない!
「カミュ、起きてよ! 逃げるって約束だろ!?」
どれだけ呼びかけてもすぐには起きないのはなんとなくわかっていた。背中にママの得意な雷を当てられたんだから。ぐったりした肩に腕を回し持ち上げてカミュを運ぼうとした。でも体の小さな僕にはまだ無理だった。それでも引きずるようにして追いかけてくるママから逃げようとした。
ほんの一歩か二歩分進んだところで振り返ると、もうすぐそこまで来ていた。引きずった跡の先には先ほどよりも大きくはっきりしたママがいる。
「こ、来ないでよ!」
「さみしいこというなよ。私はあんたの母親だよ」
「でも、カミュを、こ、殺しちゃうんだろ!? 悪いことしたって!」
もう間に合わない。でも撃てない。ダメなら守るしかない。右手で持ち替えた杖で氷の壁を作った。うまくできたかわからない。でも、今まで一番分厚くて頑丈で、冷たい氷の壁を作ろうとした。
しかし、手元が狂ってカミュの履いていた靴を巻き込んでしまい動けなくなってしまった。
「違う! 違う! 何にも悪いことなんかしていない! 全部僕の意思だ! 僕が連れて行ってくれって言ったんだ!」
少しだけ透けて見える壁の前でママの足が止まったように見えた。その間に少しでも遠くへ行って、カミュを守らなければいけない。でも靴が引っ掛かって動くことができない!
靴を引きはがそうとまごついているうちに、すぐに氷は湯気を上げて溶け始めた。向こう側でママが魔法で溶かし始めているのだろう。角は丸くなって、溶けだした水できらきら光りだしている。
もう薄くなった氷の向こう側から呼びかけている。最初は聞こえづらかった声も氷が解けるとはっきりし始めた。
「マリーク、話を聞け? カーチャンの話は聞いとくもんだぞ」
「違う! ママは……ママじゃない! ほ、本当のママじゃない!」
言ってからはっとした。僕は思わず心ないことを言ってしまった。なんでかはわからない。でも一番言っちゃいけないことを言ったかもしれない。そんな気がして、謝りたくなった。
でも、今はカミュを守らなければ!
「……そんなこと言わないでくれよ。確かに私はあんたのために腹を痛めてない」
しゅうしゅうと沸騰するような音を立てて湯気を上げると、ついに壁は完全に溶けてなくなってしまった。
ママは何もしていない。ただいつも通りまっすぐ僕に向かって歩いてきただけだ。それなのに僕は怖くて動けなくなった。
「悲しいこと言うなよ。マリーク」と水たまりと湯気の中で腰に手を当て目の前で立ちはだかった。
まるで大きな壁のようだ。僕が作り出した氷の壁よりも頑丈で、そして何倍にも大きな。
「あんたを誘拐された私の気持ちわかるか?」と湯気を切りバッと手を伸ばしてきた。もうおしまいだ。カミュは殺されてしまう。怖さのあまり目を閉じてしまった。
そのまま何も起きないまま少し経って、様子がおかしいと思ってゆっくり目を開けた。
それと同時に力強く体が引っ張られて、ママに抱きしめられた。何が起きたかわからなかったけど、長い束ねた髪が鼻をくすぐって、いつも嗅いでいた花の匂いのする石鹸の良い匂いがした。
それはいつも嗅いでいた匂いなのに、初めてママとあった日のことを思い出すような、なんだか懐かしい気持ちにさせた。
膝をついて屈んでいたママは、抱きしめていた僕を離すとまっすぐに見つめてきた。そして肩に両手を置くと
「マリーク、私はあんたの母親だよ。離れるなんて寂しいこと言うなよ。まだそばにいたいだろ?」
と言って、おでこを擦ってくれた。
離れたくなんかない。また独りぼっちにされたくなんか、ない。
喉が熱くなって声が出なくなった。僕はまだママと一緒にいたい。頷いて応えるとにっこりと笑った。
「そうか。生みの親でも早く死んじまうなんて、感謝したくてもできなくて悔しいだけだ。私はまだまだ、まだ死なないよ。いなくなると寂しいだろ。あんたがいなくなって、私に同じ思いさせる気か?」
と言うと大きな掌で頭をなでてくれた。
「させない! 離れたくない!」と思い切り抱きついてしまった。「ママ、大好き! わああああ!」
「鼻水だらけじゃねぇか」と微笑むと顔を拭ってくれた。
しばらく経った後、ママは泣いている僕を抱きしめたままいつも使っている話をする機械のスイッチを入れた。
「おーす、女中部隊。動ける奴いるかー?」
すると機械からノイズの混じった女中さんたちの声が聞こえた。
「ジューリアは……まだ伸びてっか。しゃーない。誰か二人こっち来い。裏だ。黒のペンキと写真機もってこい」
ひとしきり泣いた僕は少しだけ落ち着いていた。それを聞いた瞬間はっと大事なことを思いだした。そうだ。僕はカミュを守らなければいけないんだ。どうなるんだ。
「ママ! なにするの!?」とバッと離れてママを見つめた。
「怖い顔すんなって。安心しな」と頭に掌を置いて「殺しも傷つけもしない。ペンキぶっかけて写真を撮るんだよ。どーせまだ白黒だし、ドス黒く写しときゃ血っぽく見える。おもっくそ痛めつけましたってのを装うためにな。まぁその写真を使わなければいいんだがな」と言った。
しゃしんき、をまだ理解していなかったので、ペンキ? なんでそんなことするんだ? とわからなくてそう思った。
でも、僕のために土だらけになったカミュをこれ以上汚してほしくなかった。
「なんで!? カミュが汚れちゃう!」
ママは目を開いて僕を見て黙った。そして、徐々に困ったような顔になりながら、
「あぁあぁあぁ、安心しろって。服も体も綺麗にするから。それにこいつを真っ先に汚すのはたぶんあんただからなァ」と言ってはぁーっと頭を抱えた。
その時の僕に意味は分からなかったけど、何年か後にわかって死ぬほど恥ずかしくなった。あの時、カミュの監禁された部屋でイズミに話したとき、それの話はしなかった。
言えるわけないって。