真っ赤な髪の女の子 最終話
赤黒いレンガと黒く煤けた鉄製の取り外せる扉でできたパン焼き窯は、くべられた薪で冬の店内を暖めていた。
いつも通りアルフレッドは早朝から厨房に立ち、フロイデンベルクアカデミアの非常勤講師であるダリダはたまにいなくなり、アニエスは店舗で出来立てのパンを並べている。カルルさん(と呼べと言われた)は何をしているのか、目立つことは控えたほうがいいはずにもかかわらずほとんど留守だ。街道での戦闘について誰一人口にはせず、それが本当に何もなかったかのように再び日々が流れ始めた。
一つ変わったことがあるとすれば、伯爵救出後に訓練は行われず店舗での作業が増えた。おそらく気を使ってくれているのだろう。ありがたいことに盛況で、特に午前中は暇な時間はほとんどなかった。売り上げのほうは上々だ。訓練時間のかわりに労働時間が増えたので、給金は当然変わった。それまででも貰い過ぎていたが、労働の対価であり適正なもののはずで、今後やってくるかもしれない従業員のことを考えて10000だけ上乗せしてもらった。タダ働きなどという悪しき風習は残してはいけない。そういえばこの世界にも確定申告はあるのだろうか、とすこし世間知らずな自分が不安になった。
いつかの悪臭と熱気と悲鳴が脳裏に焼き付いて離れず、何かが強く焦げるにおいを嗅いだり強い熱気にさらされたりすると手の震えが収まらなくなる。幸いなことにアルフレッドは焦がすほどにパンを焼かないし、強烈な熱気が皮膚に伝わるほどパン釜にも近づく機会はない。しかし、何かの折に一度思い出してしまうと掘り起こしたくもないのに意識の中でそれを追いかけてしまう。思い出しては日常に戻りを繰り返していた。
なぜかはわからないが、杖を持っていると安心することができた。仕事中は専念することで考えないようにして、一人になった時は寝るときも移動中も片時も手から離さないようにした。朝起きると何かが壊れていることがあった。そのときはだいたい汗だくになって目が覚めるときだった。寝ながら暴れているのかもしれない。
そして、思い出すことが日常の中に組み込まれていって、自分の中でそれはそれと記憶を隔離し始めたころ。ある朝、目が覚めパン屋に向かうべく準備を整えているときだった。
ボンボンボン、キィーン、と不快な音が頭いっぱいに響き渡り、飛び上がってしまった。その直後、マイクが拾ったと思しき衣擦れと息が当たる音とともに久しぶりに聞く女性の声がした。
「あー、あー、おはよーイズミくん元気ー?」
「いいっ!? マイク叩かないでください。聞こえてますから! 頭ん中いっぱいに響き渡ってますって!」
「任命式の日取り決まったから。あんたに設営手伝ってもらいたいから週末には森に来といてー。今回は自力で来なさいよ。じゃ」
「ストップ! 待ってください! 自力で行ったことがないから結構遠いです!」
「そーお? 設営なら1日、2日くらい遅れても大丈夫だから。じゃ」
「えっ、ちょ!? まっ!」
待ってくれるわけもなく、女神はスイッチを切ったのかブッと音がして通信は途絶えた。
そうだった。
俺は今バイトをしている。魔法などを俺に与えた女神と言う非現実な存在が日本の社会では日常的なことを言ったり、もとは同じ日本で生きていたシバサキと言う人間とともに大剣や杖を振り回すファンタジーな日々を惰性だけで過ごしていたりするということがここでの現実だとすっかり忘れていた。
その一方で、雪深い自然の中で暖かいパン屋を手伝い充実した家族の絆を目の当たりにしたことや、雪の街道で自らの劫火で命を奪ったあの強烈な実戦の記憶はシバサキのところでは考えられない物であり、似ても似つかないその忙しい日々はすべてバイトの中なのだ。味わった二つの記憶の失いたくないものと消えてほしいもの、それらも偽物でもなく両方とも紛れもない現実で、確かに経験したのだが、再び始まろうとしているシバサキとの日々とのギャップに胃が落ち着かなくなった。
相変わらず勢いだけの女神のおかげでその朝は思い出して落ち込むことを忘れていた。
午前中の混雑が収まり、裏手でコーヒーを飲み休憩中のアルフレッドに俺は伝えなければいけないことがあった。少し汚れたコックユニフォームのままで厨房脇の柱に寄りかかっている。
短い間だけなのにこれほどまで高待遇で雇ってくれた店主にいきなりやめると伝えるのはなかなか心苦しい。もしかしたら、いやもしかしなくてもここをやめたくないのではないだろうか。しかし、本来の職場が再開になりそうなのにそちらをほったらかしてバイトにいそしんでしまうわけにはいかない。それにここの店主アルフレッドは話を最後まで聞いてくれる。話すための勇気はほんの少しで十分だ。近づく俺の足取りが何かを物語っていたのか、気が付いたアルフレッドが何か用かとこちらを見てきた。
「アルフレッドさん、急な話なんですがバイトをやめてもいいですか?」
「ずいぶんいきなりだな。どうしたんだ? もしかしたら今朝方フクロウが持ってきた女神さまのメッセージと何か関係あるのか?」
さすがアルフレッドだ。たった一言で事情を呑み込んだようだ。嘘はついてはいけないし、ごまかすなんて失礼だ。本当のことを伝えよう。
「あの、信じてもらえないと思うんですが賢者になるの俺なんですよ。それでちょっと早めに来いって女神さまに言われて」
「驚いた。そうだったのか。通りで変わったことが多かったのか。杖も普通の魔法使いじゃ持てないようなものを持っているとアニエスも言っていた。君の杖は娘が触ると体力をすべて持っていかれて一日ほど動けなくなるからな」
「こ、この間はアニエスさんにひどいことをしてしまいました。ごめんなさい」
「構わんよ。きちんと連れて帰ってきたじゃないか。それにしても賢者か、素晴らしいな。賢者がバイトしていた店、とは良い響きじゃないか。下積み時代の一幕みたいでな。ははははは」
驚いたという割にはあまり表情が変わらない。そして、豪快に笑うアルフレッドを見て、緊張感がほぐれ体が軽くなった。
「信じてもらえるんですか?今後についてはっきりしたことは言えないのですが、今度の任命の儀式にシバサキは参加するはずなのでおそらく彼の用事も済んでいると思います。それで再結成するのではないかと」
「そうか。わかった。元に戻る、ということだな」
「ごめんなさい。急な話だったので」
「気にするな。バイトでありながら君はよくやってくれたよ。またいつでもきたまえ。歓迎する」
アルフレッドはコーヒーを一口飲んだ。何か言いづらいことでもあるのか、一通りの話は済んだが口をつぐんだまま視線を向けている。
「だが、君は本当に大丈夫なのか?」
その一言で呼吸が早くなった。このままそのことについて黙って見送りはしてくれないのはわかっていた。相手がだれであれ命を奪うことに疲れ果ててしまう俺を気遣ったことと、いずれ直面する困難から逃げることを許さないその言葉に何と答えればいいのだろうか。彼の、いやモギレフスキー家全員のやさしさだろう。それはわかるのだが、どうすれば正しいのかわからず奥歯をかみしめる。
「頑張り、ます」
絞り出すように言ったものは到底応えになっているとは思えない。
アルフレッドは下を向いて目をつぶると、そうか、と小さい声が聞こえた。
俺はもしかしたら止めてほしかったのかもしれない。頑張ります、など中途半端な回答をして、突き放されてしまったような気がして上着の袖を握り締めた。
「いいだろう。頑張るといい。たまに、そうだな、ひと月に一度くらいはうちの店に顔を出しなさい。約束だ」
そう言うとマグカップを置いて寄りかかっていた柱から立ち上がり、こちらに向き直ると肩をポンと叩いた。
止めない。止めてはくれない。当たり前だ。でも、自らの意思で立ち止まることは許されたような気がして胸がいっぱいになり手足がうずいた。やはりこの人にはかなわない。
しかし、いつまでも感動に浸っていてはいけない。あのオリーブの森、名前は、確かカリギ、カリナントカの森はブルンベイクからもノルデンヴィズからも遠いので動くとなれば早め速めでなければいけない。
以前行ったときは女神に拉致され連れて行かれ、帰りはふんすふんすと鼻息の荒くなったシバサキについて戻っただけなので、正しい場所はわからないのだ。
「それで、週末までにあのオリーブの生えてる森に来いって。ここからどれくらいかかりますか?」
レアにもらった世界地図を机の上に広げた。それを見たアルフレッドは地図を二度見直して口を開けている。
「また君はこんなわけのわからないものまで持ち出して。本当に何者なんだ。まあいい。地図で見るように大分離れているぞ。移動魔法は使えないのか?」
ブルンベイクを指さした後にカリギウリと書いてある森を指さしている。最高級のフリッドカントカの地図だから縮尺も正しいだろう。グレタ街道中のはじまりの場所とノルデンヴィズが500キロほど離れていることを考えるとものすごい距離だ。
「自力でそこまで行ったことが無いので、きびしいですね。前回は、その、女神に拉致されて着いたので」
「女神に拉致……そうか、一人ではいけないのだな。ではアニエスに頼「わかりました!お父様!イズミさんを森までお連れすればいいのですね!?」
いつから話を聞いていたのだろうか。俺の肘をぐっとつかんで引き寄せながらアニエスが話を遮って真横に立っている。頬が当たりそうなほど近い。
「魔法で移動ならまだはや「では早速出発の準備をしてきますね!!」
そういうとスキップしながらるんるんと鼻歌混じりに自分の部屋へと向かっていった。
アルフレッドと二人、その後ろ姿を呆然と見つめてしまった。
「娘をよろしく頼むぞ。ああなると止まらない」
「道中お守りします」
用途次第だと割り切っても薪ストーブの窓越しの炎が少し怖い。
「ダリダさん、今日はアカデミアではないのですか?」
「プロフェッサーがいない時だけ呼ばれるの。今は暇なのよ」
アニエスの準備を待っているとダリダが紅茶を淹れてくれた。
アカデミア、というのはどの規模なのだろうか。プロフェッサーと言えば教授だから大学みたいなものだろう。教授、嫌な響きだな。いや、もう関係ないか。
薪ストーブから少し離れた位置でぼんやりしていれば温まった体はそのまま眠りにつけそうだ。
1時間くらい待っただろうか。ダリダが淹れた紅茶の二杯目も完全に冷めきってしまった。おまたせーと普段のケープとは全く違う、白のワンピースにカサブランカスタイルのストローハット、手にはトレンチコートとおしゃれに着替えたアニエスが大きな革のトランクを抱えて出てきた。
「アニエスさん、そんな長旅にはならないと思いますが」
「何をおっしゃいますか。女の子にとっては旅の時間は長い短い位に関係ないですよ! さぁさぁ行きましょう! 早く! はやくぅ!」
鞄を持とうとするも受け取る間もなく、はつらつと歩くアニエスはドアに向かっていった。しかし、ドアの前でアルフレッドに呼び止められ、何かを言われている。うんうんと頷くアニエスの目は真剣だ。娘が心配な父親に気をつけろとでも言われているのだろう。
家を出ると晴れた昼下がりの町には子どもが白い息を吐きながら走り回っている。パン屋の裏手の家のドアがぱたりと閉まるとアニエスは「まずはどこから行きましょうか!?」と覗きこんで訪ねてきた。ゆっくりと笑顔が広がっている。
「えっいや森にお願いします」
何を言い出すのかと思わず、視線をそらしてしまった。
「いきなりは遠すぎて無理ですよぉもう」
困ったように笑うアニエス。
「じ、じゃあ一番近い大きな街でお願いします。街道沿いの」
「そっちよりこっち行きましょうよ! この海辺の町! 温かいみたいですよ! 私海見たことないんですよ~。わぁ楽しみ~。あはっ!」
「そ、そうですか」
勢いで押し切られてしまった。それからアニエスとの観光旅行が始まった。彼女が言うには週末までにはまだ余裕があるから間に合う、大丈夫らしい。
海を見たことが無い、というのはどんな感じなのだろう。
四方を海に囲まれた島で、その中でも海に比較的近いところで育った俺にとって少し動けば見られる海は日常の一部だったのでいまいちそれがわからない。海を見たがっているアニエスは初めてそれを見たとき、何を感じてどんな思いをするのか。しぶしぶ付き合ったというには俺もそわそわとした感じが収まらない。
馬車の中でアニエスは初めて見る海への期待で終始頬を紅潮させていた。移動魔法でカルモナの隣町に行き、その後馬車に乗った。アニエスもいまだかつて訪れたことのない街なので移動は馬車となった。そして海沿いの中都市カルモナに到着した。坂にある都市で港がある。この世界において海は未開の地が多いフロンティアであるためか港はかなり大きい。そして、風光明媚な地形を生かした観光地としても大いに発展しているようだ。
坂の上に到着した馬車から降りると、真っ直ぐではない水平線が見える。夕暮れにはまだ早いが、西日が傾き始めて空はほのかにオレンジだ。潮風の匂いは世界が変わっても同じだ。磯の、塩気の中に生き物の腐った臭い。
「海って、その、何だか独特の匂いがしますね」
あれだけ興奮していたアニエスはすこしおとなしくなっている。やはりいい匂いではないようだ。しかし、初めてきた見知らぬ海だからかはわからないが磯の香りは慣れていたはずの俺ですらきつかった。
「ここは一段と、ですね」
荷物が降ろされると馬車が土埃を上げて出発していった。
まだ浜辺は遠いので潮騒は聞こえない。ここは眺めも良く日が沈んでいくことに見とれてしまいそうだ。
「アニエスさん、宿どうします? もう日も傾きはじめていますから早めに決めましょう」
「ふぇっ!? や、宿ですか!? ど、どうします?」
「海きれいだからもう少し海岸沿いまで下りましょう」
「そ、そうですね!」
上ずった声が返ってきた。胸の前で杖を両手でもち左右に肩を揺らしたり、帽子から出た髪の毛の先をくるくると指に巻きつけては話したりしている。まさか今さら年の近い男と二人旅に緊張してきたのではないだろうか、と思い込む俺自身はのどが渇いて仕方がないし目を合わせづらい。
坂を下りていくと道並みは観光客向けであろう海側に向けたバルコニーのあるきれいな宿とトリコロールなど色とりどりな店先テントを構えたレストランやバー、カフェばかり並んでいる。気温は今までいた寒冷地とはうって変わって温かく、寒いところから来た俺たちのコートは似合わないし、何より着ていると暑いので早々に脱いだ。
暑いのか手で赤い顔を扇いでいるアニエスに話しかけても裏返った声でうん!しか言わなくなった。おそらく、どこにしましょう、と聞いては埒が明かないような気がしたので、進むほどに大きく立派になっていく建物の中にレアの所属する商会のロゴが付いた看板があるのが目に入ったのでそこにすることに決めた。
「おかえりなさいませ。イズミ様」
広いロビーの奥まったところにある受付に宿泊ができるかどうか訊ねようと近づくと、いらっしゃいませではなくおかえりなさいませと返ってきた。名前まで知っているとは何ごとかと思って受付の顔をうかがうと、ノルデンヴィズにあるレアに運び込まれた宿の受付がいた。
感動の再会、とまではいかないが見知らぬ土地で旧知の人間に会うことに驚いてお久しぶりです! と両手を持ってしまったら、受付に手と顔を交互に見つめられ怪訝な顔をされた。笑顔が返ってくるかと思ったが拍子抜けしてしまった。
「確かにお久しぶりですね。商会の系列の宿ですので私がいることが変だとは思いませんが。ご宿泊ですか?」
「はい、二名ですが、大丈夫ですか?」
「かしこまりました。今日はカルモナの奇跡の日で少々割高ですが」と言うと、
何かひらめいたのかあっと声を漏らして続けて「レアさまに付けておきますか?」と付け加えた。
「あ、いやいや今回は自分でもちます」
「ここだけの話ですが、レアさまにつけたほうが割引できますよ」
「えっ、じゃあ、あの、ええと、それで」
何をやっているんだ、おれは。いや、しかし、どれほどの割引が付くのだろうか。私用の連絡先でレアさんにはあとで伝えておこう。足がついたりしてレアさんが怒られないといいけど。申し訳ないと思いつつ、またしても恩恵にあずかってしまった。冷静に考えてみるととてつもなくいけないことをしている。
なんとなく、こういうのがダメな人間をますますダメにして取り返しのつかないところまで導いてしまうのではないだろうか。パン屋での稼ぎは生活費を除いてすべてレアに渡してしまおう。
それにしても「カルモナの奇跡」とは何だろうか。
赤い絨毯の敷かれた長い廊下の先に観音開きのドアが見える。宿に入って受付をする間から目を丸くしたまま黙っていたアニエスがやっと口を開いた。
「イ、イズミさん、なんでこんな高級宿にしたんですか? というかなんで受付さんは知り合いなんですか?」
胸には商会のワッペンが付いた鮮やかな赤と紺の別珍でできた制服に身を包んだポーターがアニエスの鞄を持ち運んでいる。どうもそれが申し訳ないらしく、ポーターとちょうど対角線上にあたる俺の右後ろを猫背でこそこそと付いてきている。
「仲間に商会の子がいて、ロゴに見覚えがあるからここにしたんですよ。受付もノルデンヴィズで会ったことある人でよかったです」
「こ、この宿って偉い人の保養所みたいなところですよ。本当に何者なんですか?」
「たまたまですよ」
入る前は高そうだなと思っていたのだが、顔見知りの受付に会ったことで緊張が吹き飛んでしまった。もし見ず知らずの人が受付なら、商会のフリッドスキャルフの地図をさりげなくちらつかせて、いやいや何を考えているのだ。アニエスの様子を見るとどうやらここは俺が思っている以上に高級なようだ。さっき入り口の回転扉で入るタイミングを計れず慌てていたのは動揺していたのだろうか。
部屋の前に着き観音開きのドアが開かれると、オーシャンビューのリビングが見えた。西日が目に染みるほどにまぶしい。部屋に着くなりアニエスはわああと歓声を上げ目を躍らせながらベランダに向かっていった。
ポーターが荷物を置いたあと、夕食の時間はもう少し日が傾いてきたらとお願いした。いつかと同じように部屋まで持ってきてくれるのでバルコニーで夕日を見ながら食べることにした。大部屋なので寝室は二つあり、それぞれ分かれて眠ることにした。海側でバスルームに近いほうをアニエスが使い、その反対側を俺が使うことにした。俺はできれば落ち着いて眠りたいし、夢にうなされて暴れているかもしれないので、男女七歳にして同衾せず。
部屋着に着替えたアニエスとバルコニーで夕食を食べているとき、二人ともいい大人なのでアルコールを注文した。ダリダかアルフレッドのどちらか、もしくは二人とも笊なのだろう。どれだけ飲んでもアニエスは酔った様子はなかった。そのくせ俺はと言うと、ワインが好きだとか言って頼んだボトルを半分ほど飲んだ後、饒舌になったかと思うと強烈な眠気に襲われて食事の後アニエスを放ったらかしてすぐに眠ってしまった。食べているときのアニエスはよく笑っていたから、良しとしよう、かな。
「イズミさん、イズミさん、起きてください」
アルコールを飲んだあとの眠りは浅い。体質なのか何なのかはわからないが、何かあるとすぐに目が覚めてしまう。耳元でささやかれた声に目が覚め、ゆっくり目を開けるとアニエスがいた。時間はどれくらいだろう。もうだいぶ遅いはずだ。
「海を見に行きましょう」
海はバルコニーから見えるのになぜ浜辺まで降りるのだろうか。寝ぼけていたので理由は特に気にはしなかった。
「あ、浜辺に着くまで目を開けちゃだめですよ?私が手を引いていきますから」
目をつぶりながらアニエスに手を引かれて歩きだす。まだですよ、絶対に開けちゃダメですよ、と何度も何度も念を押されている。しばらく歩くと足の裏の靴を通して伝わる感覚が変わり、舗装された道を外れて草や石を踏みしだく感触になっていた。砂浜も近いのだろう。
そして、手首に触れていた感触がふっと無くなった。着いたのだろうか。
「もう開けてもいいですか」
目を開けようとしたら、アニエスの手のひらが目の前に飛んできてバシッと勢いよく視界をふさがれた。
そして、「あ、ああ待って待って、もうちょっとです! もうちょっと」と目を隠されたまま向いている方向を変えられた。
「もういいですよ」
一体何があるのだろう。目を開けると見えるのは並ぶ宿の消え始めた灯りだけだ。確かに夜景はきれいなのだが、これを見せに来たというには少し弱い気がする。
「イズミさん、こっち向いてください!」
背後の少し離れたところから声がしてゆっくり振り向いた。
その瞬間、言葉を失った。
海はどこまでも青く光っていたのだ。
ロングスカートの裾を少したくし上げて、青く光る波打ち際に裸足のアニエスがいる。
「今日は『カルモナの奇跡』っていう日なんですって! 海が青く光るなんて素敵ですよね!」
白い足首が水面を蹴り上げると光がさらに強くなる。しぶきは満天の星空に舞い上がり、星と区別がつかなくなって消えていく。空と海の星の中で見せた初めて見る姿はいつか見た魔法使いの姿と同じように神秘的で、あのときとは違って楽しそうだった。
そうか。カルモナの奇跡は夜光虫のことだったのか。夜光虫は赤潮の一種だから生き物の匂いが特に強くなる。たしか、去年の、日本的には2017年のゴールデンウィークに赤潮が発生して夜光虫が見られるというネットニュースに影響されて、深夜二時ごろに由比ヶ浜へドライブしたことがあった。コンビニのコインパーキングに車を止めたが、似たような目的で来ていた大学生やチンピラで騒々しく、すさまじい臭いのせいであまり期待していなかった。しかし、波打ち際に立ち、沖で立ち上がり浜に近づくにつれ崩れる波の中で青白く光る夜光虫を見たときには気にもならなくなるほど心が躍った。
由比ヶ浜の時とは違って周りには誰もいない。いるのはアニエスと俺だけだ。それだけでなく、以前とは比較にならないほどに海が青く光っている。海一面が青い絨毯のように。
波打ち際ではしゃぐアニエスを眺めていると、俺が悩んでいたことをいつの間にか忘れてしまいそうだった。
「イズミさんも!」
駆け寄るアニエスの手が俺を空と海の光の中に連れて行った。
「このところ元気がなかったからすこし安心しました」
「ありがとうございます。少し楽になりましたよ。カルモナの奇跡、見ていると懐かしいですね。俺のいたところでは夜光虫って呼んでましたよ」
光るしぶきをかけあうのに飽きて砂浜に並んで座り月が少し傾くまでの間、繰り返される波の音だけを聞いていた。青い海の上にある月明かりに照らされた銀色の夜の雲は風に穏やかに流されている。
「イズミさんは不思議なところから来たんですね」
「遠いところですからね。こんなに星は見えませんが、大事な故郷です。あの星のどこかかもしれません」
「ふふふ、そんな遠いんですか?でも、すごく素敵なところみたいです」
一呼吸置いた後に「いつか、つれていってくださいね」
「そういえば、アニエスさんは地元、ブルンベイクは好きですか?」
聞こえていないふりをして他の話題を持ち出した。元気づけようとしてくれた彼女の願いにこたえられずごまかした。それを彼女も察したのか、小さい声でそうですよね、と下を向いた。人差し指で砂に何かを描いている。
それから、アニエスは両腕を伸ばした。そして「戻りますか」とつぶやいた。
夜は遅いのでお互いに特に何もしゃべることはなく宿に戻った。海水や砂を落とすためにシャワーを浴び、再び眠ることにした。左右で部屋に分かれ、それぞれに自分のベッドに戻っていく。
浅い眠りの時間は短く、瞬きをするうちに朝がやってくるだろう。あと一日は何をして過ごそうか。
横になって考えるうちに眠っていた。
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