真冬の銀銭花 第十一話
冷静なつもりでいた体が冬の風に包まれると興奮から醒め静けさを取り戻していく。
森の中の屋敷の方角から人の声が聞こえていることに気が付いたので、私はすぐにマリークの元へ戻った。近づいてくる私に彼は少し怯えたような顔をしている。
これまで何年も生活を共にしてきた力強いジューリアを圧倒した私は彼の目にどう映ったか。日常を壊され怖れるのも無理はない。
だがそれでどういうことが起こっているのか本当に理解したようだ。覚悟を決めたように頷き、駆け足で近づいてきた。傍に来た彼の手を取り再び柵へと向かって走り出し、そして離れてしまうのではないかと恐れて握る力を強くした。
「マリーク、逃げましょう! どこか遠くへ!」
「あれ!? サント・プラントンには行かないの!?」
私は逃げることにしたのだ。彼を連れてどこまでも、どこまでも。
金融協会から全権を任された私が人質として彼と行動してさえいれば、金融協会そのものが人質をとったことと同じだ。それに指示は誘拐だけだ。たとえどんな形であっても上層部はその事実を利用するのは明白。ならば本部に渡すなど危険なことはせず、私がことが落ち着くまで匿っておけばいい。
「私は金融協会の人間です! 私といれば協会が誘拐したみたいなものです! でも、本部にあなたを引き渡したりしません! 逃げて、逃げて、どこまでも逃げて、落ち着いたころに戻りましょう!」
「ママとパパにはまた会えるのか!?」
「会えます! 必ず! イズミにだって会えますよ!」
「なら、さみしいけど、付いていくよ!約束だろ!」
「ええ! どこまでも、どこまでも!」
乾燥した冬の風が砂ぼこりを上げ、走るほどに二つの息は白く舞い上がる。
ギンスブルグ邸の冷たいコンクリートと弱い日差しに温まることのない鉄の柵を、マリークを抱えて飛び越えた。
これから彼との逃避行が始まる。ゴールはあるのだろうか。終わりはあるのだろうか。後黄麦月のグラントルアの街を抜けて、雪を忘れても銀色の針葉樹の森を抜けて、凍ることのない暖流を浴びるたくさんの港のある西の果てへ向かい、そして樽と綿花の箱の間で波に揺られおだやかに海を越えよう。
そして、ラド・デル・マルのイズミに会えれば!
彼に、彼に何とかしてもらおう。
抱えていたマリークを下ろすと再び走り出した。
私は自由を得たような気持ちになった。白い枷のようだった鎧もなく、誇りではなく相棒であった剣もなく走る体は、ほんの少しの寂しさはあるが味わったこともないほどに軽く、どこまでも走っていけそうだ。
生まれて初めてそう感じたような。もしかすると責任が付きまとうからとそれから逃げていただけなのだろうか。
マリークはまだ不安がある様子だが私の真横で楽し気に笑っている。自由の代価は二つ分の責任。それがどれほど重たいか、私は理解していないのかもしれない。だがきっとその理解からも逃げていたのだろう。
ユリナ、ごめんなさい。私は逃げます。
マリークの手を強く握った瞬間、背中に何かが強くぶつかった。ジューリアの拳よりも早い、しかしそれと違ってとても軽い何かだ。多少の攻撃なら何でもない。まだいける。
しかし、ぶつかった何かは次第に広がり始め、痺れるように背中を伝い、太ももの裏を通り足に絡みつき動きを鈍らせていく。そして次第に足の自由を奪われ始めた。動けないのではなく、動かなくなっているのだ。
逃げなければいけないというのに。どこまでも。それなのに足は言うことを聞かない。
ついに視界も揺らいできてしまった。まだ走らなければ、マリークを守らなければ。
踏ん張ろうと鉛のような足を力づくで前に突き出だそうとした。しかし、その足さえも力が抜けてきてしまった。痺れは足だけではなく全身へと広がり、腕の力さえも抜けてきつつある。やがてマリークの小さな掌も離れていく。
遠くで誰かが私を呼ぶ声がする。マリークだ。彼が私を呼んでいる。もうそちらを向く力もだせない。
薄れる意識とぼやけた視界、遠くに感じる音の世界の中で逃げられなかったと後悔しながら、瞼だけに残った感覚は閉じていく。