マルタン侵犯事件 第十五話
「お帰り、今日はもう終わりなの?」と咳払いをした後、寝起きのしゃがれた声で尋ねると彼女は再び笑った。
「はい! もう終わりました。街の支部に行くだけですからすぐでしたよ」
「そういえば、金融協会のラド・デル・マル支部ってどこにあるのさ?」と言いながらコーヒーカップを持ち上げた。鼻の近くに持ってくると冷めきったそれからは煮詰めた土のような匂いがする。目が覚める濃い匂いだ。
「メインストリートを港側に向かって歩いていく途中にあります。ここから数ブロック先で歩いていくと15分くらいですかね。それを遠いと取るかは人次第ですけど」
彼女は椅子から立ち上がり、使用人が淹れてくれたコーヒーのお替りをなぜか持ってきてくれた。
「あ、ありがとう。なんで持ってきてくれたの?」
ティルナはこの地では最高位の家族の娘のはずだ。ごく自然に甲斐甲斐しい動きをすることに驚いた。
「カミュちゃんの手伝いするときの癖です。年が近いですが、あっちではセンパイって呼んでますけどね」とお盆を胸の前で抱き抱えている。
そのしぐさをする彼女の姿は今朝方見かけたモアニにどことなく似ている。似ているのはしぐさだけではない。ティルナとモアニのもともと持つ雰囲気がどこか似ているのだ。
「そういえばさ、この間のニイア・モモナの話聞かせてくれない?」と言うと、ティルナは眉を寄せて体をくねくねさせ始めた。積極的に話してきたモアニとここは違う。
「えぇ、ヤですよぅ。恥ずかしいですぅ……」
まだ十代の彼女は何となく昔話をする側ではなく、聞く側だった年が近いので自分で話すのは恥ずかしいのだろうか。嫌なことや自信のないことをするときはだいたいこういう反応をするのだ。
このまま無理にやれと言い続けると、でもでも、になるので、「いや、実はさぁ、お兄さん、エスパシオ大頭目にティルナに昔話を聞いて来いって言われててさ。立ち話程度だったんだけど、聞いてこないわけにいかないからさ……。頼むよ。これから会うっぽいし、失礼にならないようにしたいからさぁ。頼む!」と大げさに両手を合わせて彼女にお願いした。
すると彼女は動きを止めて、怒ったように顔を膨らませた。
「に、兄さん、なんでそんなこと言うかなぁ……。自分が恥ずかしくてしたくないからって」と言うとテーブルの斜め向かいに座った。
ティルナが恥ずかしそうにした昔話は、どこかで聞いたことのある物だった。
寒さで弱った太陽の巫女カイラを助けるために青年マルが、その巫女から航海術を授かり旅に出るが、不運にも海で遭難してしまう。そこで七人の船乗りに助けられて仲間となる。
その船乗りたちも太陽を取り戻すために旅をしていて、目的が同じなので八人で旅を続けていくことになったが、一人ずつ脱落していき、最後にマルとニイアの二人だけが残り、山の怒りを鎮めて太陽を取り戻すという話だった。
ここまではモアニの話していたダークエルフの昔話と設定から物語の流れもある程度ではあるが似通っていた。
しかし、それからあとが違った。続きがあったのだ。
マルとニイアは山の怒りを鎮めるときに怪我をすることはなく、助かった太陽の巫女とそれからも旅をつづけた。しかし、その途中で船が遭難してしまった。
ニイアは遠くを見渡すために天に高く高く上り、ついに陸地を見つけることができた。しかし、あまりにも高く登りすぎたので地上に戻ることができなくなってしまったのだ。
せめて二人を助けるために、毎晩同じ時間に天の同じ場所に現れるからそれを目印にして進みなさいと、捕まえた流れ星に言葉を載せて二人に伝えたそうだ。
そのおかげでマルと太陽の巫女は陸地に戻ることができた。しかし、ニイアは二人が無事に陸地にたどり着いたかどうかを知ることができずに今でも同じ時間・同じ場所に上り、天から見守っているそうだ。
「じゃ、その七人がカフアで、最後に空に飛んでいったニイアがニイア・モモナってことか」
肘をつきながら聞き入っていた。俺はへぇーとテーブルに付いていた肘を離して、伸びをした。
「そうだと思いますよ。でも、あんまりはっきりしないこともあるんですよ。航海術の昔話って言う割に航海術に関してはもう出来上がっていますし、書物はありますけど諸説ある口伝をまとめたもので、伝言ゲームみたいになってますし……。まぁ昔話なんてそんなものですよね」
そうだね、と笑った。するとキューディラが鳴った。パッと見るとどうやらカルデロン本宅の使用人からのようで、おそらく会議が終わり書類もまとまったことを知らせる連絡だろう。
「おっと、来たみたいだ。ティルナ、ありがとうね。俺用事できたから、さっそくお兄さんのところ行ってくる」
一度自室へ戻り準備をしなければと俺は椅子から立ち上がり、ダイニングを後にした。