真っ赤な髪の女の子 第九話
訓練を付けてもらい始めてから大分経過したある日のお昼過ぎ。ひと段落して休憩中にアニエスが作ってくれたお弁当を食べているときだった。
「私、もう25なのに男性とまともに話ができないんです。でも結婚願望があるんですよ」
作りすぎたのか明らかに量が多いお弁当の四分の一ほど食べたあと手が止まったアニエスは岩に座って遠くを見ている。よく晴れていて麓の湖沼とブルンベイクの町並みがきれいに見える。昨日は雪が降ったのか、真っ白になりまだまだ春は遠いようだ。
「そうなんですか。俺は大丈夫なんですか?それに俺が昔いたところでは晩婚化進んでいましたよ。30で結婚とかでも早いくらいですし」
「イズミさんにはもう慣れました」と言うと岩から飛ぶように立ち上がった。そして続けて「聞いていた男性像と少し違ったので。私はもっと早く結婚したいんです。せめて来年とか」
アニエスの聞いていた俺の男性像とはどんなものだろうか、彼女の背中を見ながら考える。参考になる男性が父親しかいないとすれば間違いなく素敵すぎる紳士だろうか。それとも逆にオークか何かを想像していたのか。気にはなるがとりあえず後回しにした。
「あの、相手はいるんですか?」
悲しそうな顔をして下を向いた。男性に慣れていないという話を聞いるし、ほぼ毎日俺に訓練をつけるためにつきっきりなのだ。察してはいたが、やはりだった。
「すいません。アニエスさん、素晴らしい人ですから大丈夫ですよ。売れ残るなんてことは絶対にないですよ」
自分でも驚くほどあっさり答えが出てきた。
落ち込む姿が見ていられなくて言ったのだが、どうも中身のない発言をしてしまった。何をどうとって大丈夫なのか、根拠はどこにもない。実はお世辞で売れ残りまっしぐらだろうと思っているわけではないのだが、自分の言葉に違和感を覚えた。
それを聞いたアニエスは顔だけこちらに向け、
「では、いますぐ結婚してくれっていったら、あなたはしてくれますか?」
といいながらキッと視線をきつくした。
やはりいい加減なことを言ったのだな。彼女を怒らせてしまったようだ。
「そういう大事な話はテキトーなところで妥協点見つけるのはよくないですよ。しっかり考えたほうがいいですよ」
またのらりくらりとありきたりなその場しのぎのような言葉をかけてしまった。しかし、言ったことは事実でそれ以外に何を言えばいいのか思い浮かばない。アニエスは全身をこちらに向け声を荒げた。
「私には時間が無いんです! しっかり考えてなんていたらおばあちゃんになっちゃいます!」
感情的になるアニエスは初めだ。杖の陰に隠れて猫背でおどおど話す普段の彼女からは考えられないほどだ。怒っているというよりは眉毛はへの字に曲げ、早口でまくしたてる彼女には別の感情があるようだ。唇を開いて彼女を見つめてしまうと、はっとした後におろおろし始めた。
「あ、ああ、ごめんなさい。私感情的になってしまって」
再び岩に座ると下を向いて杖を両手で強く握り、小さく震えている。
泣かせてしまったわけではないようだが、空気が重くなった。
「気持ちは、わかりますよ」
本当はわからない。最後の最後まで理想的な回答を見つけられなかった。恋愛とか結婚とか、そういうのは考えられない。生きていくことに必死だからだ。シバサキのところにいたときは考えもしなかった単語だ。ブルンベイクで過ごす日々の中で少しずつ思い出したのだろうか。
お弁当の残りはすべて食べつくして、静かに山からの景色を見つめる。
ヒミンビョルグからの眺めはどこまでも見通しが効くが、遠くなるほどに青くかすんで見えなくなる。見えているようで何も見えていない。
アニエスの様子が少しずつ変わり始めたのはその日以降だ。
三つ編みだった長い髪はほどかれ、毎日髪型が変わっていく。コンタクトレンズはまだないが少しでも目立たないようにするためか眼鏡はリムレスになった。鼻の高さと眼鏡の鼻幅が広く、黒目が上がっていて最初のころの印象を少しだけ残している。
黒のケープはところどころほつれた黒一色のやぼったいものから丈が長いものになり、胸元に大きなリボンのあるファー付きのものに代わった。白黒千鳥格子のスカートも丈が長くなり大人な印象になった。
髑髏などややパンキッシュだったシルバーのアクセサリーはなくなり、代わりに指輪やハートのネックレスになっていった。
化粧もし始めたのだろうか、ファンデの色が白すぎたりアイシャドウで目が小さくなったりしていた。しかし、ダリダの指導と元来の器用さもあり、あっという間に上達していった。結婚の話をして以降、毎日の休憩時間のときは恋愛話ばかりするようになっていった。
「そういえばイズミさんは結婚しないんですか?」
「俺はそんなの考えてないですよ。いつまでたっても不安定でそれを考える余裕ないんですよ。だからないですね」
「したくないわけじゃないんですね?」
「まぁそうなりますが」
上達したメイクや日々変わるコーディネートは初対面のころのアニエスをどこか遠くへ追いやった。吐息があたるほど近くで話をするアニエスから柑橘系のいい匂いがする。その匂いがこびりついてしまうほど距離感が近くなった。最初のころのやさしいパン屋の匂いのほうがよかったのだが。
受け身な印象が強くこちらから話しかけないと一言も言葉を発さなかったアニエスは困っているわけではないのにやたら「何かありますか? すぐに言ってくださいね」と聞いてくるようになった。訓練後は泊って行くように毎日のように言われるのだ。
彼女の日々の変化が大きすぎてついていけなくなってしまいそうだった。思い込みかもしれないが、その手に入れた積極性が俺に向けられているのではないだろうか。
もしそうならば、彼女は道を選び間違えていると思う。まだ世界を知らない彼女が選ぶにはあまりにも貧相な選択肢だ。
ただ、これを女神に相談しようものなら「あーたはそーやって逃げてるだけよ。とりあえず一発ヤっ(略)」と言われるのが関の山だ。
アルフレッドは「娘はだいぶ変わった」と言い、不安を持ちつつも経過を見守っているようだ。訓練は熱を帯びてきているし、パン屋のほうの仕事も勢いづいてやるようになってきたようだ。
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