マルタン侵犯事件 第三話
別宅に戻るとカミュが来ていて、彼女は応接室で先に顔を出していたオージーとアンネリ、ティルナと話をしていた。
「お久しぶりです。イズミ」
ドアを開けて入ってきた俺を見て微笑んでいる。上品に座る姿もスーツ姿も以前から相変わらずで、それ以外に特に変わったところはなさそうだ。
「そうだね。かなり長いこと会ってなかったね。元気?」
「ここに来られるくらいは元気ですよ」と冗談っぽく笑った。サント・プラントンからラド・デル・マルは遠い。物理的にも、そして現在は精神的にも。
「お二人も双子も元気そうで何よりです。今日の用事はもう済んでいて様子を窺いに来ました」
「そういえば、もうここは連盟政府ではなくなって別の国になったけどカミュは出入りできるの?」
「今のところは問題ないですね。もちろん金融協会の者と言う印と五家族の許可は必要ですが」
そうなんだ、とあまり深くは追及しないことにした。おそらく今日来ていたのも流通する通貨についての会議なのだろう。
それからコーヒーを飲みながら軽く談笑した。首都サント・プラントンは特に変わりはないそうだ。連盟政府はアルバトロス・オセアノユニオンも友国学術連合も国としては認めておらず、厄介な地方叛乱としか思っていないそうだ。表向きは。
流通貨幣についてはルードやエインであることは変わりがないため、通貨発行権を持ち各地に支部のあるヴィトー金融協会の行き来は可能だ。
しかし、それゆえに政府から独立した組織であるにも関わらず、国営化を勝手に推進されたり、為替操作を堂々と要求されたり、色々と圧力がかけられている。それだけならまだしも、昨今のルード通貨の対エイン価値の下落や辺境孤児支援基金の監査など大変な様子だ。
談笑が終わると彼女は帰ることになった。しかし、帰り支度のために立ち上がるときに、俺に目配せをしてきたのだ。
「カミュも帰るみたいだね。街の外まで送っていくよ」
「イズミ君もどこか行くのかい?」
一緒に立ち上がった俺にオージーが眉を上げている。
「オージー、アンネリ、悪いんだけど俺ちょっとグラントルアに行ってくる。和平交渉の仕事で行けってさっき指示されてさ」
そう答えると、彼は小さく頷いた。
「そうか。気を付けて行ってきてくれ。ボクたちは軟禁されているが、研究するというとバスコさんの研究所の行き来は許可されていてね。これからまた行くつもりなんだ。先生は入りびたりのようだ」とオージーが言うとアンネリが横から彼の脇を肘で小突いた。
「オージー、あれ渡しなさいよ? もうできてるんだし」
何かを思い出したように、ああ、と目を大きく開けるとオージーは、「イズミ君、少し待ってくれないか。ギンスブルグの屋敷にはいくのだろう? 持っていってほしいものがある」と言って自室に向って行った。どうやら荷物があるようだ。
オージーを待っている間に俺はティルナに尋ねた。
「なぁさっきエスパシオ大頭目に会ったんだけど、よくわからんこと言われたぞ」
彼女はのぞき込むように俺を見ると、
「そうなんですか? 兄さん、ときどき気取りますからね。気取りすぎて何言ってるかわからない事ありますし」
「なんだったかな。霧星帯の目印の星が何とかで、それが俺で夜明けになるか、夜になるかとかなんとか……」
うぅん? とティルナは人差し指を口に当てて、黙って少しの間天井に視線を送った後、
「ニイア・モモナの話ですか? 兄さん、その話してよかったのかな……。カリスト頭目にあまり言うなって……」とティルナは少し眉を寄せた。
「何かわかる?」と尋ねると、そのままの顔でうーんと呻り、
「ごめんなさい。それだけじゃちょっと。ニイア・モモナは夜明け前と日没前とで高さが同じなんですよ。夜に出港することは少なかったらしいですが、それでよく混乱させられたから午前と午後がはっきりできたとかなんとか、昔話ですけどね」とティルナは困ったように答えた。エスパシオが何となく言いたいことが分かった気がした。
ニイア・モモナは夜明け前と日没前は同じ高さになる。空が白む前か、藍色の背中を向けた後ならわからない。そもそもの方角を間違えたら時間も逆になる。そして、夜明けは和平、日が昇れば繁栄で、夜は戦争、月が出て山ほど人が死ぬ。
つまり、俺に何とかしろと言いたかったのか。洒落たことを言おうとしていたのにいまさら気が付いた。そんくらいわかるだろ、と人の比喩に現実的な返答をするのは野暮だ。深く考えるのもしかり。
「兄さんがそれを言ったってことは、イズミさん信頼されてるんですよ。頑張ってください!」と胸の前に両手拳を上げて笑っている。
簡単に言ってくれるな。信頼とか関係なしにやり遂げなきゃいけないんだよ。――とは言わずに、頷くだけにした。