藍色に黄昏るデオドラモミ 第四話
その次の日から始まった実験にはティルナも参加した。
グリューネバルトが何か話せば、まっすぐに彼を見続けて、何か必要になるとすぐに彼女は動いた。実験の休憩の合間にはグリューネバルトも常に何かを教えていて、次第に行動も共にするようになっていった。ティルナは笑ったり、怒ったり、サント・プラントンで初めて会った時よりも感情を表に出すようになった気がする。
ある朝のことだ。明るくなるまで研究室に入り浸っていた俺たち四人の前に、髪の短い髭を生やした男性が現れた。
他の講座の先生が間違って入ってきてしまったのかと思い、その男性をよく見ると、なんとそれはグリューネバルトだったのだ。師匠の変わり果てた姿を目の当たりにしたオージーとアンネリは作業を意図せず中断させられ、目と眉を上げてこれまで見たこともないような顔をして彼を見ていた。
しかし、彼の有無を言わせぬ雰囲気は変わらず、気にはなっていたようだがそれを話題にすることはできなかった。それから実験を行い、彼がいなくなった途端、二人はティルナを双方向から壁際に追いやり質問攻めにしていた。グリューネバルトのイメチェンは、どうやらティルナがああしたらいい、こうしたらいい、と言った結果のようだった。
いや、話題にできなかったのではなく、もしかしたら、もし話題にしてしまったら恥ずかしがって辞めてしまうのではないかと危惧してあえてしなかったのかもしれない。
グリューネバルトにも変化が見られ、これまでの吊り上がった目と白髪交じりのやや長髪の髪型という、いかにもバリバリのアカハラ体質の研究者のような恰好から、LE〇Nの表紙に出てきそうなダンディズムを醸し始めたのだ。髭をミディアムフルベアードにしっかりと整えて、さっぱりと髪を切り、こだわりのありそうなスカーフを日替わりで巻いて現れるなど、身だしなみに気を付け始めたのだ。
例えて言うならフィリッ〇・ジュマのような。持ち前の鋭い目つきと不敵な笑みはワイルドな印象を醸し出し、悔しいが男前だと俺さえも思ってしまったのだ。
グリューネバルトとティルナは常に変わり続け、まるでお互いを高め合っている様にも見えた。その一方で、人と人とが仲良くなる過程をぶっ飛ばして距離が近づいているような気がした。老人とティーンエイジャーの関係と言うよりも、まるで年の近いもの同士のようにティルナと接していて、祖父と孫と言うよりも、何か、こう……なものを感じてしまうほどだ。知ったこっちゃない、と言えばそうなのだが、やはり同じ研究室に長時間いると目についてしまうのだ。
どうして気になってしまうのか。冷静になるとすぐにわかった。俺もアラサーなのにもかかわらず、アニエスに会うたびに爪が伸びているとか髭の剃り残しを指摘されるのだ。爺さんが十代のきゃぴきゃぴの女の子と仲良くなり、自分を磨いていける様子を見るのが悔しいのだろう。我ながらみっともない。
それからも二人の間柄は深まっていくが、次第に日が経つにつれ気にもならなくなっていった。しかし、ある日を境に関係性にどこか変化が出てきたのだ。
遠くに見えていたはずの夏の入道雲は夕方になるとフロイデンベルクアカデミアをすっぽりと覆っていた。雨降りの日が少し多くなってきた、秋の足元もだいぶ近づいてきたある日の夕方。
俺は休憩中に研究室の一角に無造作に置かれたテーブルでコーヒーを飲んでいた。窓の外は夕立が降り注ぎ、それでいてまばらな家々の先よりもさらに遠くの水平線の方には夕焼けの赤、オレンジがわずかに見えている。向かいにはチョイ悪教授ことグリューネバルトが座っていた。オージーとアンネリ、それからティルナは機材を借りに魔術科へと交渉に行っていたので、俺は彼と二人きりだった。
「こうやって二人にされると気まずいですね」
「よくいう奴だな。貴様は」はっと鼻を鳴らした。
俺は持て余した右手でコーヒーカップの淵を指でなぞった。
「先生の昔話を聞いたのもここでしたね」
尋ねると向かいのちょい悪オヤジは感慨深そうにコーヒーカップに口を付けた。
「橋の話か。私はなぜ貴様に話したのか……覚えとらんな」
「忘れろとはいいませんよね?」
ミラーリングするかのように、俺もコーヒーカップを口につけた。
「忘れろなどというものか。あれはマリソルの生きた証だ」と言うと、静まり返った。まばらに強く吹き付ける雨音に混じり、遠雷が聞こえる。
「ティルナはマリソルに似ていますか?」俺は思い切って尋ねてみた。
「度胸のあるやつだな。私にそれを聞くとは」
俺はやや不満気な彼の顔を何も言わずに見つめると、グリューネバルトはカップを持ちあげ、「フン……似ているとも。同じ家の者だからな」と口を付けた。そしてそのままカップに目を落すと、「イスペイネ産か。私がティルナにマリソルの影を追いかけているか、と聞きたいのかね?」
マリソルに対する責任を感じ続けていたのだろう。守り切れず腕の中で死んでしまった上に、ダリダと共に送り出したがそこに至るまで彼は遠回りをしてしまったのだ。神が、周りにいる人間すべてが彼を赦したとしても、最後に赦しを与え自らを解き放つのは彼自身なのだ。俺は黙ってうなずいた。
「できるはずもない。それはわかっている。だがティルナを幸せにすることで、私の中のマリソルは私を赦すのではないだろうか、などと思ってしまう。これは未練だが、未練などと言う言葉ではまとめてほしくない」
「それで近づくティルナを受け入れてるのですか?」
「……そうかもしれない」と言うと、研究室のドアがわずかに開いて揺れていることに俺は気が付いた。