ルシールより愛をこめて 第四話
窓の外の煙突の影は無くなり、低く古い建物も次第に数を減らしている。黒塗りの蒸気自動車は走り続け、もうグラントルアの街の中心部は抜けた。
しかし、どこを目指しているのか、突然ついて来いと言われた俺にはまだわからなかった。隣にはマゼルソンがいる。後部座席に並んで座っている彼のしかめた顔は規則的に差し込む街灯に照らされていたが、郊外に近づくにつれ暗くなり見えなくなっていった。俺はすることもなく、話すこともないので、できる限り視線がぶつからないように外を見ることにしていた。
無言が続いていた車内で、「そういえば君は撃たれたことがあったな。その弾丸の後ろについていた黄色い金属を覚えているかね?」とマゼルソンが話を始めた。折しもトンネルに入り、見ていたガラスに彼がこちらに視線を向けている姿が写った。
忘れる物か。記憶の八割は痛みしかない。魔力射出式銃の弾丸は俺の左肩に当たり盲管銃創を作った。シロークに後で見せられた憎きその姿は忘れられない。何も言わず俺は彼の方を向いた。
「あの重い金属は少々特殊でな。それの採掘場で珍しい気体が見つかった」
トンネルを抜けると道は悪くなり、車はガタガタと音を立て始めた。急に訪れた不規則な揺れに俺は姿勢を崩してしまった。それからまたしても彼は無言になった。
しばらくして車が曲がり、そこで止まると運転手が降りていった。真っ暗闇の中を照らす車のライトが、有刺鉄線の付いた金網の門をいそいそと開ける彼の姿を一瞬だけ映し出した。
ここはどうやら練兵場のようだ。敷地内に入り再び車が止まるとドアが開けられ、降り立つと目の前の暗闇の中に大きな建物があるのか、星空が四角く黒くなっているのが見えた。
暗闇に目が慣れ辺りの状況が見え始めるとそれは排気口のついた見覚えのある大きな倉庫で、俺が立っている位置はちょうど土下座をした場所だと気が付いた。状況を理解するまで時間を要した俺の横を、マゼルソンは立ち止まることはなく通り過ぎ、風を吐き出す大きな倉庫のドアへと向って行った。
中に踏み入れると真っ暗でどこまでも深く、ダムの下にある作業用トンネルのようだ。空気はひんやりとしていて、立ててしまった少しの足音でさえも響いていくのが聞こえる。
マゼルソンが壁の何かを押すと長い廊下の天井の照明が俺たちの道を示すように手前から奥へとガシャンガシャンと音を鳴らして点いていった。
白色の灯りは真っ暗闇を照らし出し、白いコンクリートでできた床と天井を青白く露わにして、はるか先の突き当りまで姿を現させた。すると立ち止まっていたマゼルソンは先を進みだし、廊下を歩みながら再び口を開いた。
「その珍しい気体は不思議なことに空気より軽いのだ。そして燃えたり何かを酸化したりすることもなく安定性が高い。分光スペクトルがどうのと言う話は私でもややこしいのでやめよう。とにかく価値のある気体だ」
ずっと奥まで行くのかと思いきや、途中のドアの前で立ち止まった。開けられたその中は真っ暗闇で、奥の方で赤や緑の電球がぽつぽつとついているのが見える。とても広い空間があるようだ。
「新たに発見されたその気体だが、名前を私から取ったらしい。やめろと言ったのだが、研究者たちが止まらなくてな」
俺の方をちらりと見ると顎を動かし、中に入れと催促をしてきた。
足元には僅かな隙間の先に縞板が見え、踏み込んだ先でばねの付いた金属の台の上に載っているような感覚が足に伝わってきた。「そこのバーに掴まりなさい」と言うと廊下からの灯りを頼りにマゼルソンは何かを操作した。
直後にピーブ音がなり、黄色の回転灯が回った。投げかける光は広い空間の壁の一部を照らし出し、空間の真ん中にある大きな何かの姿をわずかに見せている。俺が近くの金属バーを掴んだのを確認したマゼルソンはレバーを引いた。すると足元の台がガコンと揺れて上へ移動し始めた。
「その気体はヘリウムと名付けられた。いやはや、自分で言うのは恥ずかしいな」
「ヘリウム!?」とオウム返しに言おうとしたその時だ。蒸気が噴き出す音が聞こえると四方から生暖かく独特な匂いのする風が吹き俺を包み込んだ。突然の湿気と温風に驚き、言葉を無くして咽ながら顔を腕で覆ってしまった。
蒸気が無くなるのを肌で感じゆっくり目を開けると、空間内部の高い天井からつるされた照明が煌々とついていた。そして、もうもうと覆われていた蒸気が次第に晴れると、大きな円筒形の物体が現れはじめた。
まだ開いた瞳孔には眩しい、光る白銀の大きなそれはまるで鯨だ。外に無造作に置かれている物に形は近いが、それとは違い、羽ばたくことによる上昇を想定したような羽はついておらず、その代わりに大きなファンと舵を取るための四つの尾翼が付いている。まさかと思い、心臓が強く脈打つのを感じた。
「この円筒形の中にはヘリウムの気嚢が入っている。空気よりも軽いそれを用いて空を飛ぶのだ」
機械を操作しながら眩しい照明を受けた逆光の背中越しに言った。
「ルシール、シャンソンを教えたかつての私の恋人は、こう呼んだ」
排出された蒸気がどんどんと晴れていくと見えていたそれは視界いっぱいに広がり、その形もスケールもすべてを露わにした。俺は円筒形の大きなそれを知っている。
「“飛行船”と」
ガシャンと大きな音と振動の後に台が止まると、マゼルソンは俺の方を振り向いた。
「君は―――これが飛ぶのを見てみたいと思わないか?」
先ほどまで抱いていた彼に対する不信はどこかへ消えていて、目の前に広がる光景は俺にすさまじい興奮を与えた。
これは空を飛ぶ。外に並べられているような物とは明らかに違う。俺は航空力学やら難しいものは知らない素人だ。だが、わかる。これは本当に空を飛べる飛行船だ。
そして、マゼルソンと、その姿さえ知らぬはずのルシールが円筒形のそれに乗り二人だけの青い世界で髪を風になびかせる姿を、見てみたいと思ってしまった。
それこそがマゼルソンの見た、空を飛ぶ夢、いや野心なのだと興奮の中で唐突に理解した。