ウロボロスの王冠と翼 第四十話
「なんであんたがここにいるんだ……?」
崩れて破れたテントが静かにはためく中にたたずみ、話していなければ表情のない顔は俺がよく知っているものだ。その男に近づけば近づくほどに、俺は動悸を抑えられなくなり、手には汗が噴き出て来た。眩暈も起きてついには前かがみになってしまった。
情報共有を依頼してきた男は、俺にはマレク・モンタンにしか見えないのだ。旧ルーア・メレデント共和国の一等政省秘書官で、強硬派かつ帝政支持者であった前政省長官アラード・メレデントの側近だったはずだ。責任を問われる前に彼と共にイスペイネに亡命しようとして失敗し、海の藻屑となったと聞いていた。
「あなたとはこれまでに会ったことがないと思いますが?」
モンタン、いや、モットラと名乗る男はそう眉を寄せて首を傾げた。
「イズミ君、知り合いなのか?」
焦る俺とモットラを交互に見ながらオージーが不思議そうに尋ねて来た。彼は俺と共に共和国へは行っていた。しかし次期金融省長選挙の際、図書館で引きこもっていた。そしてアンネリは身重でストスリアでお留守番だったので、二人はモンタンには会っていないことになる。この場でモンタンの姿を知っているのは俺だけだ。
本当にモンタンなのか? よく似た誰かではないだろうか?冷静に考えればこの場にはいないはずなのだ。俺は改めて彼を舐めるように見回した。
服装は連盟政府側の人間らしく近世のような恰好で腰にレイピアを付けている。共和国側で見たスーツ姿ではない。適度に着崩されていて違和感もない。掌は剣を扱う人らしく、大きくたくましい。まだ剣と魔法の世界の連盟政府ではそれは珍しくない。近代的な共和国で見たモンタンのあの手こそ、本当はおかしいものだったはずなのだ。思い出して俺は混乱した。
突然「なにか?」とモンタン、モットラは目だけを動かしながら言った。
わずかな時間であったが、俺はまじまじと見つめてしまったようだ。これではユリナの部屋の前で彼を凝視してしまったときと同じだ。その間彼は丁寧に肌の色を塗った石像のように動くことはなかった。それもまたいつかと同じように不気味だ。
「あ、ああ……申し訳ないです。イズミと申し……」と言いかけると、少し離れたところでパパパパパンと破裂音がして狭い路地の中を反響した。避けるように一斉に伏せた。
「何!? 襲撃!?」
「いえ、爆竹ですね。どうやら警戒されている様子です。逃げましょう! こちらへ!」と言ってモットラはいきなり走り始めた。俺たちも遅れまいと彼についていった。
「あれはスラムの住人が侵入者を警戒するときの合図です!我々は目を付けられてしまったので厄介なのが出てくる前に逃げましょう!」と走りながら彼は説明をした。
それからスラムから逃げ出して活気のある街の大通りにでた。人通りを避けるように道の脇に逸れて、そこで改めて自己紹介となった。
「なんとか逃げ切りましたね。では改めまして、ヴィヒトリ・モットラと申します」
「俺はイズミです。この二人はアウグスト・ヒューリライネンとアンネリ・ハル……ヒューリライネンです」と紹介するとモットラは表情を明るくした。そして、どうも、と二人と握手を交わした。
オージーは興味深そうな顔でモットラを見つめると「君は……もしかしてスヴェンニーか?」と尋ねた。するとモットラは微笑んだ。
「ははは、やはり同郷ではすぐにわかってしまうようですね」と言った。それにオージーは喜んだようで、握っていた手を強く握りしめて揺らした。アンネリは目を丸くしてモットラを見ている。
「やはりそうなのか! どうも他人ではないような気がしてね」
「確かに、私はスヴェンニーです。ですが、出生にはちょっと色々ややこしいことがありましてね。今はサント・プラントンで自警団をしています」
モットラは困ったように笑いながら後頭部を抑えた。今度は俺の方へ向き直り、「改めましてイズミさん、よろしくお願いします」と右手を差し出してきた。
この男の見た目は俺にはモンタンにしか見えない。しかし、あの時とは違い、名前も名乗れば握手もしてきた。本当に彼ではないのだろうか。握る掌はひやりとしていて、長い間武器か道具かを使い続けたせいなのか見た目通りごつごつと逞しかった。あの時無理やりにでも握手をしていれば違いをはっきりさせられて、手に残る疑念を否定か肯定できたかもしれない。手と手が離れた後、自分の掌を俺は見つめた。
それから全員でカルデロンの別宅に移動し、情報交換をすることになった。
俺たちはモットラに、双子誘拐から手紙を追ってイスペイネに来たこと、五家族を回ったことなど、これまでの経緯をすべて話した。一方のモットラは、サント・プラントンの自警団の一人である彼が観光でイスペイネに来ていたところ、シスネロス家使用人の失踪する直前の姿を目撃したとのことだ。自警団の責任もあり、その行動の怪しさゆえに途中まで追跡したが撒かれてしまったので最終的にどこへ向かったのかはわからないそうだ。
話が終わると情報に具体性が乏しいことをお互いに謝り、謙遜とそんなことないですよ、の応酬が起きた。
だが、確かに少し情報があいまいな気がするのだ。俺は彼の話を聞いているとき、そう思いながら顎を弄っていた。それが何か考えるときの癖なのだろうかと自分で気付いた。
人の出入りが少ないシスネロス邸から抜け出した怪しい人間をモットラがたまたま目撃したのはまだ可能性としてありうる。だが、ただの観光客に過ぎない彼がなぜそれを使用人だとすぐに分かったのだろうか。
そして、ティルナはカルデロン家の人間だ。使用人の行方不明は大事であり、ましてや外部の人間からもたらされたその情報は、序列で言えば真っ先にティルナが知るはずだ。しかし彼女はそれを全く知らない様子だ。彼女自身、わが家が一番と言うのを謙遜していて、あまり序列だなんだと言わないから違和感がない。
それどころか、これまでの経緯を考えると、情報が最初に伝わったのは序列三位であるブエナフエンテ家だ。その次に、それを聞いたシルベストレ家が使用人を使って連絡をしてきた。俺たちが四番目にヘマの元を訪れたことに対して切れ散らしていた彼女がそれを許すとは思えない。だが、怒るどころか捜査に協力するとまで言ってきた。
モンタン、モットラの話は情報が薄すぎる。だが突っ込むわけにはいかない。この男がモンタンである可能性を俺は捨てきれないからだ。
そして、もしかしたらティルナが知らないだけで、エスピノサ、カルデロンの頭目たちはすでに把握していたら?
剃り残した髭を無意識に引っ張った痛みで俺は我に返った。
モットラがモンタンであるという先入観に支配されてしまっている。これは一度冷静になる必要がある。世界のすべてが陰謀論でできているわけではないのだから。
俺は肺一杯に大きく息を吸いこみ、そしてゆっくりと息を吐きだしながら姿勢を正した。