違う。お前じゃない。 第五話
気が付かなかったが近くに小川があり、そこにかかっている苔むした石の小さな橋を渡ろうとしたとき、バンと眼には見えない何かにぶつかった。痛みに鼻の頭を押さえる。今度はうっ血ではなく腫れてしまうのか。
立ち止まり、そっと手をそのあたりに伸ばしてみる。すると目には見えないがプラスチックか何かの壁があるようだ。何処からか出られないかまさぐってみるものの会場から出すまいと張り巡らされていた。女神の仕業だろうか。
仕方ないので会場の隅っこで体操座りをして終わるのを待つことにした。もちろん、人混みに遮蔽されてシバサキからできるだけ見えない位置で。
―――よくぞ集ってくれました。私の忠実なる子供たち、勇者よ。今宵は神託だけでなく、この場でそなたらに、そなたら自身に議論を交わしてもらいたい。我は問う、そなたらは争いを継続する魔王をどうしたいか? 討伐してすべてを統一するか?それとも和議を結びと
「おお、わが女神さま、先ほどは私の部下がたいへんな失礼をしてしまいました。私はどうなっても構いません。彼だけは、彼にだけは何もしないでください。決して悪い男ではございません。どうか、どうか」
―――は?
―――あ、いやゴホン。それでは続けます。討伐しても和議を結んだとしても、私はいっこうにかま
「女神さま、本当に申し訳ございません。なにとぞその大きな器で寛大な処置を!なにとぞ!」
―――勇者シバサキ、そなたのことはもう怒ってはおりません。あたし、私は勇者シバサキとその彼のすべてを受け入れ許します。
女神さま、自分のことあたしって言いかけてますよ。落ち着いてください。素が出ている。
「んんんんんんなんと寛大なお方であられるか!」
どこまでも響きわたりそうな大声を上げた後、静かに女神の話を聞いていた勇者たちの間に沈黙が流れた。
だがなぜだろう。その沈黙はとても騒々しいものに感じるのだ。たとえば、ピアノの発表会で弾き間違えて生まれた刹那の沈黙の中を観客たちの「あ~あ、やっちまったな」という声には出さない、気の毒に憐れむ思いの波動で満たすような。
やはり勇者たち、表には出さない。皆一様に顔色は変えずに微動だにしない。しかし、やはり勇者も人間。世に救済をもたらさんために極めて人らしい感情を持っているが故に指名されたので、憐れみや共感の心は捨てきれないのだな。それどころか、何倍にも膨れ上がって、沈黙により磨きがかかるその波動。
―――本題なのですが、えーっと、
女神が言葉に詰まった。若干キャラクターにもぶれが起きている。おそらく段取りをぶち壊されて戸惑っているのだろう。
―――今は多数決を取ります。和議のものはそのまま、討伐のものは剣を天に掲げ、迷うものは地に座りなさい。少しの間、相談するのは構いません。
それを聞くと会場にはざわめきが起こり、それぞれの身内仲間内で相談が始まった。四、五分もしないうちにざわめきは引き始め、何もしない者、剣を掲げる者、座る者が出始めていた。俺は頭数にカウントされているかよくわからないので、体操座りのままでいた。我が班の偉大なるリーダーさまはどっちなのか、俺の座っているところからは見ることができなかった。僕勇者! とやる気は見せていても、実際のところはよくわからないと座っていそうだが。
次第に何もしない、そのままの姿勢の人たちが増えていき、最後には多数派を占めていた。何年も続く不毛な戦いは消耗するだけで、何よりも飽きてしまっているだろう。和議を結んで解放されたい人のほうが多いのだ。
―――あなたたちの考えはわかりました。迷うものはいて当然です。自らの考えに自信がないのではなく、迷うことにこそ自信を持ちなさい。討伐を選ぶ勇敢な者よ。その勇気に祝福があるでしょう。和議を選んだ者よ。そなたらのやさしい心はきっと相手にも伝わるはずです。
―――最後になりますが、そなたらに伝えることがあります。そなたら勇者の中から一人、賢者になる資格を持つものがいます。そのものは卯月に神託を受けます。それではみなに祝福があらんことを
森の中の神秘的な光は消え、集会は終わった。
さて、これから集会になぜ俺が参加しているのかについてシバサキの説教が始まる、と思うと背筋が凍った。説明を求められても彼は聞く耳はもたないうえに、彼の中で完成された物語以外を受け付けないので、もはや伝えることよりも殴られないためにはどうすればいいだろうか、彼がこちらにやってくるまでの間に考えて、肉体、精神、魂すべてにおいてダメージの最も少ない最適解を導き出さねばならない。集会が終わり、まとまって並んでいた人の列が崩れ始め、隙間からシバサキが見え始めた。こちらに向かってきている。
「シバサキさん、お、お疲れ様です」
「うん。そうだな」
再び様子がおかしい。いつもならシバサキはここで拳を振りかざすか、蹴りを飛ばしてくるはずなのだが、暴力的な仕草は一切なくなぜかそわそわと落ち着きがない。不測の事態に見舞われて俺は彼の顔を覗き込んでしまった。なんと彼は涙目になっていた。そして、深いため息のあとに深呼吸をすると、
「新人くんも聞いただろう。賢者が出るって話。あれきっと僕のことなんだ。業績の数々とまじめに働いてきた年月がそこへ導いてしまったんだ。僕としてはまだ勇者でいたかったんだけどね。仕方ないよね。女神さまの決定じゃ、覆せないよ。僕だけどんどん出世しちゃうけど、君もミカチャンもユッキーもずっと仲間、いや家族だからな。偉くなるんだから、ちょっとくらいなら融通効かせてあげるよ。よし、がんばるぞ!」
勇者が名残惜しいといったような残念そうな顔をして、涙を流すまいと上を向いている。自身の昇進することへの喜びと慣れ親しんできた勇者と言う仕事への別れのさみしさからか、彼は感極まってしまっているようだ。
俺が賢者になりますなんて言ったら、この場で撲殺されそうだ。
どうしよう。
四月までの身の振り方、四月以降の身の振り方、そしてこの人の脳内フローラ。
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