アトラスたちの責務 第五十六話
「はい、左様でございます。イサク・ベッテルハイムではございません」
「では、そのイサク・ベッテルハイムはどこにいるんだ? ここには姿が見えないようだが。今日の話はその程度の話なのか? その……、ああ、名前を失念してしまった。貴様のような下っ端が来る程度の」
「そうではございません。先ほど仰った通り、人間・エルフ共栄圏を揺るがすほどの大事な話でございます」
「しかし、それほどまでに大事な話だというのに。ああ、繰り返しはよそう」と右手を小さく挙げて首を左右に振って一呼吸開けると話を続けた。
「それとも、商会にとっては、人間・エルフ共栄圏を揺るがすなど、大した話ではないと言うことか?」
「いえ、そのようなことは決して」
「では何故イサク・ベッテルハイムはここにいないのだ?」
「商会長は多忙な身でございまして、本日こちらにお伺いすることはかないませんでした。ですが、私も……」
何とかして話の流れを変えようと口を挟もうと試みたが、父上は私を抑え込んでいる。ラビノビッツも言われた言葉に対しての反応が素早すぎて、私が入る隙が無いのだ。
おそらくラビノビッツさえも、私に付け入らせようとしていないのだ。
「忙しい?」
父上は語気を強めてラビノビッツを遮った。
どちらかの機嫌を損ねてでも割って入るべきだった。まごまごと父上を恐れている間に事態は最悪な方へと舵を切った。
忙しい、ラビノビッツの放ったそのたった一言が、父上の逆鱗に触れてしまったのだ。私は家族という立場さえ振りかざせないほどに空気は最悪になってしまったのである。
「ユニオンの新通貨発行事業は大変忙しい。私も出さなければいけない指示が山ほどある。可愛い我が子達も動かさなければいけないほどに多忙だ。ユニオンは共和国や北公、ルスラニア王国との取引が連盟政府などに比べて非常に多い。つまりそれだけの金が動いている。我々ヴィトー金融協会は金を動かす役割を持っている。その我々が流れの真ん中で立ち止まり、遮るわけにはいかない。私は忙しい。貴様たちの商会長とやらと同じくらい。いや、お前たちの会長とやらよりも忙しい私がこうしてここにいるというのにか?」
ラビノビッツは「申し訳ございません」と深々と頭を下げた。とりあえず下げていれば良いだろうという、切り落としても血も何も出てこなさそうな、中身の無い白いうなじが見えている。
父上はその仕草を見下ろし、「うむ?」と喉を鳴らして「何をしているんだ?」と怪訝に小首をかしげた。
「無駄なことをするな。ここでこうして私に頭を下げるのは貴様ではない。貴様の名も知らぬほどに価値のない頭ではなく、イサク・ベッテルハイムの頭だ。代わりに下げられた頭を見るなど、不愉快でこの上ない」
父上は吐き捨てるようにそう言った。
ラビノビッツは顔を勢いよくあげ、雰囲気を明らかに変えたのだ。
突然顎を上げると「はぁ。左様でございますか。そのようなことを言ってしまうのですか」と首をぐるりと回して開き直った顔を見せた。




