血潮伝う金床の星 第四十三話
ジューリアさんの腕の中でそれまで静かに寝息を立てていたはずのイリーナが泣き出してしまったようだ。母親が怒り出して車から俺を放り出したことを、離れていながらに感じ取っているのだろう。道端の金属のペール缶に打ち付ける雨音にも負けないような力強い泣き声が聞こえる。
「応えろや! イズミ!」
ゆっくりと車から降りたち、傘もささずにずいと立ちはだかったユリナに胸倉を掴まれた。降り注いだ雨が彼女の顔を伝い頬に落ちてくる。
「カストを殺した奴ァシバサキなんだな!?」
分厚い軍服に染み込む雨水で体は冷え始めた。水たまりに尻をついたまま、俺は何も言えなかった。カストが殺されたとき、犯行現場にいて、俺を突き飛ばし、自らの名前を知らしめろと言った男が、シバサキだとはどうしても言いたくなかったからだ。いや、もしかしたら認めたくなかったのかもしれない。自分の見たものすべてが、その後の爆発も本当にガス爆発で、その衝撃のせいで頭が作り出したただの幻であってほしいと願っていたのかもしれない。
掴んでいた腕に力が籠められ袖の部分が膨らんだユリナに、俺は持ち上げられた。顔が近づいたが視線を合わせることができず、右下を向くと帽子のつばの雨水が滴った。何度怒鳴られても、掴んだまま首を揺すられても、俺は口を開こうとしなかった。次第に耳が拒否しはじめたのか、怒鳴る声は遠くで響いている様になっていった。
頑として認めたくなかった。だがここで無言になったことで、現場で俺はシバサキを見たことをほぼ認めてしまったようなものだった。しかし、それでも俺は何も言いたくなかった。
視線を合わせていない。だが彼女は強烈に睨みつけているのがわかる。焼けつくような視線を感じるのだ。すさまじい怒りと自分を追い詰めた人間への憎悪が、まさに俺に向けられている。
それがどれくらい続いただろうか、ものすごく長く感じた。その後、車の反対側のドアが開き、傘が雨粒をはじく音がすると、シロークが慌てて降りて来た。そして、力がこもって手の形をした鋼のようになったユリナの手を引きはがした。解き放たれて落とされた俺はまたしても水しぶきを上げた。
細かい事情は屋敷で聞こうと彼になだめられて、震える背中を押され車に乗り込むときに俺を一瞥したユリナの顔はひどく恐ろしいもので、大事なことを隠していたことに対する怒りだけでなく、どうしようもない不安にも見えた。
運転中、イリーナはジューリアさんにあやされていたが泣き止むことはなかった。ユリナはきっと今はイリーナをなだめることができない。怒りとそれ以外の様々な感情に満ち溢れた彼女ではイリーナを怖がらせてしまう。子どもたちは母親の怒りには敏感だ。その怒りの矛先が自分たちでは無ければ特に。マリークも静かに手を握ったまま、何かをこらえてすました顔だった。車の座席に浅くかけて頭を抱える俺の雨曝しになったコートから水がぴたぴたと滴り、足元に水をためている。車が屋敷に着くと彼女はすぐさま部屋に入ってしまった。
彼女が閉じこもってしまった原因について、俺はシロークに事情を話した。爆発事件の真相、そこで俺が見た者、彼の友人の死にざま、その全てを包み隠さずに伝えた。黙っていたことは捜査への妨害になったことは間違いない。それは、ごめんなさい、と正直に話したところで許されるものではない。当然ながらシロークは俺を怒った。
しかし、彼はシバサキと言う人物がどういう性格であるかをユリナから聞いていたので、感情のままに抑え込んだりはしなかった。同じ人間同士でかばい合ったとはメリットがなさすぎるから考えられない。
もし自分がそこにいたら自分もそうしたかもしれない、と言ってくれたのだ。そして、捜査を行っている法律省の警備隊と統合情報作戦局に連絡を入れ、被害者であるイズミがショックで失った一部の記憶を取り戻したと一報入れた。俺は改めて捜査に協力することになったのだ。
それからユリナは部屋にこもることが多くなった。食事も自分の部屋で一人きりで採る様になってしまったのだ。彼女を屋敷の中で見かけるのは、まだ幼いイリーナの世話をするときだけになってしまった。怒りのあまり母親であることすら忘れていないか、少し不安になったが子どもたちは面倒をしっかり見ていたことに俺は少しだけ安心した。
ユリナにはシロークも話しづらいようで、連盟政府内で迷子になったときのような、まるで少し前の間柄に戻ってしまったようだ。屋敷の中には雨が降れば雨音が、風が吹けば風の音が、家鳴りのように響く。騒がしいが賑やかだったことを痛感させられた。
ユリナは毎朝時間になると俺を軍部省へ連れ出した。しかし、話すことはできず、冷え切った真冬の朝に触れたときの鉄のような表情で前を歩く彼女の後姿を恨めしく見つめることしかできなかった。省舎に着いて、仕事を手伝っているときでさえも言葉を交わすことができない。事務的な会話だけがやり取りされだけのまま時間だけが過ぎていった。
彼女がどう思っているのか、それを聞くことができない。
もし、俺が彼女の立場ならどう思うだろうか?
一国家の頂点に、しかも軍の最高司令官としてならば、敵に仲間が殺されても安易に軍を動かしたりはしないだろう。一個人の感情で動かしてしまうには背負うものがあまりにも多いからだ。しかし、彼女も俺も人間であることにかわりはない。自分の仇のような存在が仲間を殺したら、なりふり構わなくなってしまうかもしれないのだ。
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