血潮伝う金床の星 第四十一話
思い出したくもないあの名前だ。何度も何度も俺を罵倒し殺そうとした、あの二度と聞きたくもなかった、あの名前だ。傷が開いてしまったのか痛みが鋭くなり、俺の耳には幸いにもその声は届かなかった。
しかし、たとえ聞こえなくてもその男が名乗った名前は分かる。
名乗った後、男は持ち上げていた新聞を開いた。そして、眉を寄せて流すように読みながら、
「今言ったこと、一字一句漏らさずによーく伝えてくれよ?特に殺した人間の名前を絶対伝えてくれよ? そうでないとうまくいかないんだ。それも覚えられないほど馬鹿じゃないよなぁ、ここにいる皆さんは。ま、後々忘れられなくなるから大丈夫か。いやいや、それにしても驚くことばっかりだな。僕のこと殺そうとしたあのクソ女がこっちで軍の最高指揮官だとはなぁ。それに人間側よりも文明が進んでいるとは思わなかった。近世かそこらの文明レベルの、何から何まで魔法頼りで進歩のない人間となんかとっととおさらばして、最初からこっちにいればよかった。スイッチ一つで明るくなるのはいいよなぁ。あの女神たち二人はなんで言ってくれなかったのかなー。ホウレンソウができない上司とは困り果てたものだな。はっはっはっ!」
と笑い声をあげた。
そして廊下の壁に力なく寄りかかる俺を見ると、新聞を投げ捨て右掌を天に向けた。
「なぁイズミ、そう思わないか?」
ふざけるな、と叫びたい。だが痛みと悔しさでそれどころではなくなってしまった。また俺は邪魔をされるのか、この男に。ふざけるな。悔しい。悔しい。
「……なんだよ。壁にたたきつけられただけでヘタっちまうほど弱かったのかよ。やっぱチーム解散にしてクビにして正解だったな。ああ、ワタベさん、こんな感じですかね? そろそろ時間だから僕は逃げますよ。……チッ、あのジィさん聞いてねぇな。こういうのばっかやらせやがって」
そう言うと男はポータルを開くと消えていった。いったいどこへつなげたのかは見えなかった。なぜそれができるのだろうか。
だが、待て。それどころではない!
男は「殺した」と言った。しかし、カストはまだわずかながら生きている!
これはまずい。俺は力を振り絞った。
「伏せろ!」
力の限り叫んだ瞬間、目の前がオレンジの閃光に包まれて顔がカッと熱くなった。最後の方は爆音にかき消されてしまった。飛び散る破片の中に、集まってきた職員や警備員の武器や服の一部が飛び交っている。
朦朧とした意識の中だ。声に出せていたかも定かではない。一足遅かった。
やはり爆発物を仕掛けていたようだ。
耳が聞こえるようになるとうめき声が聞こえた。叫んでいたせいで鼓膜は無事だったようだ。そして、突然の明るさに暗んでいた目が見え始めた。煙が晴れた視界の中でたくさんのエルフたちが黒くなりもぞもぞと動いている。目撃者を残すために威力の強すぎない爆発物を使用したようだ。相変わらず質が悪い。その憎悪を持って印象付けるつもりか。
その中で俺は運よく、飛んできた職員が盾となったおかげで煙と風を受けるだけにとどまった。
覆いかぶさる職員をまだ動かせる右手で避けると、ふと、あることを思い出した。
「机の右下の引き出し。日記だ。忘れないでくれ」
それはあの雨の日、送り届けたカストが去り際に伝えてきたあの言葉だ。
そうだ。彼は何を伝えようとしたのか。呼び出されたのは彼がそれを渡そうとしていたのではないだろうか。痛みをこらえて体を引き摺り、唸り声をあげるエルフたちをかき分けて部屋のデスクへと向かった。爆発で黒焦げになったデスクの右下の、鍵の壊れていた引き出しを開けようとした。歪んで開けづらくなった引き戸を思い切り開けて中身を見た。
しかし、そこは空っぽだった。この中へ煙や煤は入らなかったようだ。引き出しの底に埃も何も積もっていない。新しくないこのデスクの中で、まるで買った時からさきほどまで物がずっと置かれていたようにそこは綺麗だった。こちらも一足遅かったようだ。
あの男か、それともほかの誰かが、ここにあった何かをすでに持ち出してしまった後のようだ。
張り詰めていた気が抜け始めて、ついに仰向けに倒れてしまった。ぼやけた視界の中に人が集まり始めた。どうやら救助活動が始まったようだ。
クソ、ふざけるな。あと少しなのに。あと少しで戦争は終わるのに。
女神と俺の願いはかなうはずだったのに。
クソ、クソ、またあの男に。
凄まじい後悔と自責の念の中で俺は意識を失った。
思い起こせば、意識を失った中でもその思いたちだけはぎらぎらと燃えていたような、暗い中で唯一それだけがあったような、そんな感覚を覚えるのだ。
テロを行ったのが人間であること、そしてそれを実行したのがあの男であること。これが和平に傾いたエルフたち、特にユリナにどれほどの影響を与えてしまうだろうか。
俺の怪我は肩の傷が開いた程度で済んだ。しかし、駆けつけてきたエルフたちの多くは重傷となり、たった一人犠牲になったのはカストだけだった。市中警備隊の行った現場検証の結果、爆発物はカストの体に設置されていたらしい。
時同じくして、ギンスブルグ家の地下で拘束していたワタベがいなくなった。ジューリアさんの話では、短時間の間に忽然と姿を消したようだ。鍵に触ったり、壁も壊されたり、そこから外部へ直通するものは何一つなかったらしい。システムを過信し、特に監視はおいていなかったのがあだになったそうだ。
俺はありえないということを疑うことにした。あの男がカストのオフィスで使った移動魔法を忘れてはいない。完全に閉鎖された空間から出る方法など一つしかない。
奴らはどこへでも現れるということだ。移動魔法の原則を無視して、自らの足で行ったことがない場所であっても。
発生時、たまたま同省内にいたアルゼン金融省長官は救助活動も始まらないうちに緘口令を敷いた。そして彼は自らが通院する病院へ被害者たちを運び、隔離した。被害者たちの怪我の程度は重く、日本で言えばICUやHCUに入れられるような状態で、自由は与えてはいけないものだった。だが、彼らがろくにしゃべれないことを良いことに、俺はユリナに犯人は人間であるとしか伝えなかった。名前は意地でも伝えないことにしたのだ。
そして、公式発表は『老朽化したガス管から漏れた爆発性の気体がタバコにより引火し爆発した』となり処理された。素早いアルゼンの対応のおかげで、全てのメディアを欺くことができた。
だが、時期が時期だけに、勘づかれるのは時間の問題だろう。
読んでいただきありがとうございました。感想・コメント・誤字脱字の指摘・ブックマーク、お待ちしております。