血潮伝う金床の星 第四十話
靄の中の、そう遠くないどこかで鐘が乾いた音を鳴らしている。
街にある鐘楼は優雅に時を奏で、鳥たちを羽ばたかせるが、その乾いた音は船出の合図のようだ。まるで死にゆくものを載せて出て行くような。低い靄に擦れて見える墓地脇の小さな建物から聞こえてくるようだ。
真冬の冷たい雨の日、グラントルアの墓地の冬枯れした茶色い芝生の一角に、深く掘られた長方形の穴があった。掘り返された芝生の下、湿った土の色は暗く、その穴はどこまでも深いのではないかと思った。
エルフたちは古来より土葬をする。棺はもう穴の底だ。
カスト・マゼルソンの葬儀はしめやかに執り行われている。
「紅の主は自らの死を恐れず、いずれ来る永久の別れを惜しむ民に力を与えき。金床に鎚を打つ無辜の民を聖なる黄金の園に集め、主は申された。汝、信ずる者にはたゆまぬ灯を、信仰無き者には信心の暁天を、祀ろわぬ者には無限の停滞を……」
神父と思しき黒い服を着た男が穴の淵に立ち、延々と祈りの言葉をささげている。
軍服の分厚いコートを着て、ギャリソンキャップではない軍帽を被った冷たい表情のユリナと、その横にはモーニングコート姿の表情を失ったシローク。その二人の後ろに立ち、俺は傘を差していた。学校の制服を着て不思議そうな顔をしているマリークとまだ何もわからないのだろう、笑顔の赤ん坊のイリーナはジューリアさんの差す傘の下にいる。
カストは生前、信頼のおける人物だったのだろう。参列者は身近なものだけとしていたがとても多かった。アルゼン金融省長官、メレデント政省長官とその孫のウリヤ、モンタン一等政省秘書官と各省長官の重役たちの姿も見られた。多忙なはずの彼らが顔を出したのは、選挙前ということもあり、目には見えない駆け引きがなされているのだろう。だが、父親である法律省長官のヘリツェン・マゼルソンの姿は無かった。
次期金融省長官の候補者の一人であり、シロークの親友であるカスト・マゼルソンは殺害されたのだ。
カストに呼ばれ金融省の彼のオフィスを訪れた際に第一発見者となってしまった俺は、まだその現場で目撃した重要なあることをユリナに伝えていない。
「祈りの言葉は帝政の時代に作られたものです。しかし、それはまだ偉大な指導者として腐敗する前の時代のものです。そのころの偉大なる主に導かれ、旧侯爵家マゼルソン、そのヘリツェンの息子、カストは黄金の園へと導かれるでしょう。遺された私たちは共に過ごした喜びを分かち合い、業績を永久に讃えましょう」
神父の白い吐息が途切れると、手の中の本は静かに閉じられた。
決選投票が佳境に入り、評議員たちとの面会を終えた次の日ことだ。
朝の評議会議事堂内でカストとすれ違ったとき、「イズミ君に渡しておきたいものがある」と声をかけられ、その日の午後に彼のオフィスへ呼び出された。俺はユリナの許可をもらい彼の元へと向かった。
金融省舎に入り静まり返った階段を上ると、不意にノルデンヴィズでの不愉快な記憶が蘇った。その瞬間ではなぜ思い出したのかは分からなかったので、気にすることなく彼のオフィスへ向かった。しかし、近づくにつれ記憶は色を帯び、感触を持ち、そして鮮明になり、しまいには歩みを止めてしまいそうなほどになった。
ピクリと鼻が動くと気が付いた。記憶を揺さぶっているものは、そこに漂う匂いだったのだ。嗅いだことのある、ヤニと何かの燃えた臭い。メンソールように爽やかなようで、それでいて喉に重く響いてむせかえってしまうような甘さのある、癖の強いその匂いは、あのタバコの臭いだ。銘柄は覚えていない。ただ、それは嗅ぐだけで嫌なことを思い出させる。
どこかで誰かが同じ銘柄のタバコを吸っているのだろう。いい気分ではない。
それからカストのオフィスの前に着き、ドアをノックした。
しかし、返事はない。
カストには数回ほどしか会ったことがない。だが、そこで感じた取ったものは優しく穏やかな印象だった。ノックをすれば落ち着いた声で「どうぞ」と迎え入れられると思っていた。性格的に居留守をするようなタイプには思えない。
もう一度ノックをしてみたが、やはり返ってくることはなかった。だが中からは人の気配があり、ドアノブに手をかけてみた。すると鍵はかかっておらず、時計回りに回すとドアは開いた。
その瞬間、強烈な臭いとともに夢か幻かわからないような光景が広がった。デスクの上に寄りかかりあの男がタバコを吸っていたのだ。
臭いのせいで幻を見たのかと思い、気を取り直すために床に視線を落とした。だがそこにも幻ではないかと思うようなものがあった。スーツの男が倒れていたのだ。長髪は床に広がり、体の下には血だまりができている。しゃべることはできない様子で唸り声をあげていた。まだかすかに動いているが、風前の灯火だ。うつ伏せになり、血にまみれた手を俺の足へと伸ばしているそれはカスト・マゼルソンだった。
再び前を向くとまだ男はいた。足元に見える血の池にカストの手が力なく沈み、べしゃりと音を立てて飛び散った血がズボンの裾についたのを見て俺は気が付いた。その部屋に幻など存在しない。しかし、カストはなぜ血を流しているのか、なぜこの男がここにいるのか、何をしているのか、意識と無意識に一度に大量の情報を送り込まれて再び混乱し始めた。カストを助けなければいけないのに動けなくなった俺を見て、その男は言った。
「……こっちには新聞があるのか。よぉ元気だったか? 新人、もうじゃねぇか、なぁ、イズミ?」
俺は気を取り直して、目の前にいるカストを殺害しようとしている男に向けて杖を構えた。すると男は
「待て待て。目撃者がお前だけじゃダメだ。もうちょっと騒いでくれよ」
と言うと右手を前にかざした。それと同時に俺はドアごと廊下に弾き飛ばされ、何が起こったのかはわからないまま、壁にたたきつけられた。びりびりと響く衝撃に肩の治りかけの傷がうずいてしまい、身動きがとれなくなってしまった。
大きな音に集まってきた職員や警備員が部屋の中のその男に気付き、銃を構えた。そして、武器を捨てろと叫び始めた。
しかし、男は困ったような顔をすると、
「えーと、それは武器を捨てろと言ったのかな? 教えてもらったが言葉がイマイチだなぁ」
とデスクの上にあった新聞を持ち上げて話をつづけた。
「エルフどもとイズミ、良く聞けよ? 僕は片言しかしゃべれないからな。イクルミ・ユリナに伝えろ。ここにいるカスト・マゼルソンを殺害したのは人間だ。そしてここからが一番大事だ。その名前を漏れなく伝えろ! 僕こそは」
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