秋霖止まず 最終話
ルカス大統領は表情を変えずに淡々とそう言った。まさか、ついに彼が危篤に陥ったのではないだろうか。あえていきなりその話題を切り出すことで、心の準備という名の不安まみれの先入観を与えない為ではないだろうかと勘ぐってしまった。
背筋が凍るような感覚が足の先から頭の頂点まで駆け上った。意図せず毛は逆立ち肩が上がってしまった。
私の突風のように訪れた動揺に気がついたのか、大統領は顎を突き出して両眉を上げた。
「おん? あ、ああ、安心したまえ。これは、これだけだが、朗報だぞ。イズミ君の容態はだいぶ安定してきた。共和制記念病院の病棟も一般の、といっても警備が厳重な個室に移ったと今朝方連絡が入った。時期に目を覚ますだろう。しかし残念だが、面会は出来ない。共和国との取り決めなのでな。その分、情報は確実なものだと信じてくれ」
空気が抜けていくような感覚に襲われた。まだこの目ではっきりと見たわけではないのに気が抜けてしまったのだ。
私の全身から溢れ出た虚脱を見ると、ルカス大統領は顎を引いて顔をしかめた。
「こらこら。安心したいのは私も理解出来るのだが、まだ気を抜かれては困りものだぞ。これまではとにかく彼の命がかかっていたので、論点がまずは一命を取り留めることだけであった。だが、彼が意識が戻れば、彼自身の今後の扱いをどうするのかの話合いがもたれるだろう。あなた同様、彼にも今や力も知名度もある。いよいよ話合いの場をもてる国家同士のタイマンということになるだ。ユニオンに戸籍があるのだ。どこよりも早く彼に与えたものがな。それを勝ち取るのだ」
「私がいるとかえって難しくありませんか? パワーバランスを乱す移動魔法を使えるのですから」
「あなたはまだ帝位を放棄していない。つまり、犯罪者だ。等しく分配されるべき力として数えられていない。共和国も法で裁くことを先延ばしにして帝政思想ごとその身柄を我々ユニオンに押しつけたのだ。何も言えまい」
ルカス大統領は動きを止めた。上目遣いになり私をちらりと見ると、そういえば、と呟き、ふむふむと鼻を鳴らすと右眉を弄り始めた。
「あのスヴェンニーの研究者二人、ヒューリライネン夫妻が戸籍のことについて何か言っていたな。イズミ君があなたと籍を入れる為にユニオンの戸籍について調べたいとかなんとか。戸籍なんぞとうの昔に作っておいたのだが。あなたの方の戸籍はどうなっているのかね? 元はイングマール領だった北公軍の中佐だったか」
「あちらでは脱走兵扱いなので前科者ですね。戸籍は抹消されていないはずです」
「そうかそうか。よく分からないのだな。うむ」と納得したように頷き、「では、どうだね。帝位を放棄したらユニオンで罪を償わないかね?」と顔を傾けて覗き込むようになった。
「あなたには私の国を荒らしに荒らしたことへの責任がある。有能な者を司法でもって押さえ付けておくのは実に勿体ないと思わないか? あなたはまだ若い。その最もクリエイティブな年代を無為に過ごしてしまうのは惜しいと私は思う。荒れた国を元に戻して、さらに発展させるまでが罪滅ぼしであると私は思うがね」
罪人を咎めるような話しぶりだが、不自然なまでに口角が上がっている。
節操の無いまでのスカウトは私にも向いたようだ。ルカス大統領は弁も立つし政治手腕も素晴らしい。この傍若無人とも思えるほどの能力に対する寛容さと貪欲な姿勢も優秀さの一つでもあるのだ。
とはいえ、私は何も言えない。この場では沈黙以外の答えが見つからない。
ルカス大統領も私が沈黙することなど分かっている。だが、ルカス大統領も逃すまいと答えを求めて沈黙を返してくる。この男性との根比べで、私は勝てる気がしない。
しばらく沈黙のにらみ合いが続いた。
ありがたいことに沈黙を打ち破ったのは、執務机に置かれた名前の無い部署とのホットラインが設定されているキューディラが鳴らす緊急連絡を伝える音だった。このとき、それが不幸の知らせであるとは知らずに、私は内心で胸をなで下ろしていた。
大統領は口を歪めて両目を開き、首を僅かに揺らした。「この話は後日だな」と言うとキューディラを受けた。
受話器を持って聞こえてくる話に何度か背中が頷くと「分かった。民議会議員とティルナ・カルデロン、それから軍幕僚を全員緊急召集だ」と言って受話器をすぐに置いた。
回線を一度着ると再び受話器を持ち上げてキューディラの端の赤いボタンを押し、すぐに受話器を置いた。
「アニエス陛下殿、あなたも引き続きここにいてもらおう」と背中を向けたまま言った。
「たった今非常に不幸な知らせが入った。連盟政府が我が国の独立を認める方向で話が進んでいると外務部が情報を掴んだそうだ。諜報部がこうして伝えてきたと言うことは、中途半端な情報では無い。北公、友学連も同様に国家として承認したそうだ」
「何故それが不幸な知らせなのですか?」
「あなたとイズミ君にとっては最低最悪の知らせだ。同時に宣戦布告もしてきたのだよ。北公のノルデンヴィズ南下戦線もマルタン国境も、ただの紛争ではなくなり明らかに戦争となった。いよいよ世界大戦が始まってしまったのだ」




