共和制記念病院にて 第一話
耳にいくつもの水滴が何かに打ち付けて立てるような音が聞こえてきた。雨音だろうか。
それにつられるように目を開けると、これまで座って見ていたとおりの天井が見えた。
左に首を回して壁側を見てみると、やはり先ほどまで座っていた長椅子が置かれている。誰もいない。女神も自分自身もいなければ、長椅子の上の焦げもない。
しかし、頭の中で風船が膨らんでいてそれが意識を圧迫しているようにぼんやりとしていて、まだあちらの世界にいるのではないのだろうか。ベッドから起き上がりその椅子へ向かうとすれば、目の前の見えない壁にまた頭をぶつけるのではないだろうか。
まだ幻想の中にいるのではないかと思ったが、先ほどまではなかった消毒液の匂いがして、枕の生地が首筋に当たるのが分かる。顔を擦ろうと無意識に持ち上げた左腕は、ウィドマンシュテッテン構造が光りそれを追いかけるようにセシリアが書いたあみだくじ落書きのある見慣れたの義手だった。だが、どうも重く、動きが鈍い。現実に戻ってきているようだが、まだ寝ぼけているのだろう。
生えた髭をなぞるように顔を擦ると、硬く冷たい感触が顎と頬に当たった。前回ノルデンヴィズで目覚めたときよりもだいぶ柔らかく、かなり伸びているようだ。今度はどれほど眠っていたのか。
病室には誰もいない。前回はアニエスもセシリアも、アスプルンド博士までもいた。こうして誰もいない病室で目覚めると、アスプルンド博士でもいてくれた方が寂しくはなかったかもしれない。
ただ寂しく、そして、少し寒い目覚めだった。
身体を起こそうにも筋力もだいぶ落ちている。こういうときばかりは筋力が関係ない義手がありがたく思った。左手でベッド脇の手すりを掴み起き上がった。
とりあえず、誰かいないだろうか。左手で身体を支えて、手の届くところにナースコールみたいなものが無いかまさぐったが何も触れることは無かった。
動かせる首を回してベッド周りを見回してみたが何もなく、この部屋に置かれた物はこのベッドと長椅子と、格子のない窓くらいなものだった。今度は監禁ではないようだ。窓には雨粒が吹き付けている。外はやはり雨のようだ。
魔法でなんとかできないだろうか。
しかし、そのために何かが足りない。まだ残る右手の触覚を頼りに掌を開いては握りを繰り返した。そこでやっと気がついた。
杖がない。
相棒の不在に気がつくと、心臓が止まってしまうのではないかと思うほどの強すぎる動悸が起き、それに合わせるように頭痛が起こった。
三叉神経を圧迫して起こる拍動性の頭痛は強烈で、視界が滲み、目眩まで起きた。
この世界で生きていくために当たり前のように使っていた魔法を突然奪われ、まるで手足を奪われたような恐怖が襲いかかってきたのだ。
俺は魔法に頼り切っていた。魔法があったから無茶も出来た。魔法があったから俺はアニエスを助けに行くことが出来た。これまでの行動全てのきっかけだった。
次第に鼓動は鼓膜を揺らすほどに大きくなった。そして脇の下が冷たくなり、やがてそれは脇腹全体を締め付けるようになり痛みに変わった。
すぐに杖を探さなければ――。これまで苦楽を共にしてきた相棒を探さなければいけない。
それは杖を相棒だとか擬人化して、自分の為でしかない行動に意味を持たせようとする言い訳でしかないことも分かっていた。だが、まるで禁断症状でも起こしているかのように、魔法を、杖を求めていた。
筋力が落ちて動きづらい右腕を力いっぱいに動かしてかけられていた布団を押し退け、立ち上がろうと左腕で手すりを掴んみベッドの脇へと移動した。
地面に向けて下ろした足で立ち上がろうと、身体を落とした。しかし、長らく血に触れていなかった足の裏は地面に対して抵抗をせず、体重を支えられず膝から崩れてしまった。
落ちていく身体を支えようと左腕をベッドのパイプに捕まろうとしたが、それは届くことなく右肩から地面に落ちてしまった。
力が入らない。俺はどれだけここで眠り込んでいたのだ。呑気に気を失っている暇なんて無かったはずだ。世界はどうなっているのだ。まさか想像も出来ないような最悪の状態になっているのではないだろうか。身体を回してうつ伏せにしてドアの方を見た。
すると、滲んでいた視界に誰かの足が見え、冷たいリノリウムの床の上で腹を出して無様に寝そべっている俺の側へと駆け寄ってきた。
「オイオイ、しっかりしろよ、イズミ。共和制記念病院の整形にまでお世話になるつもりか?」




