驟雨の幕間 第五話
結局、調和の為の悪役は、根本的じゃない。ただの対症療法だ。
しかし、原因療法というのもなかなかないのだ。
原因たる感情や欲望を抑え込めば争いは起こらなくなるだろう。それも以前考えた。共和国金融省長官選挙の後、連盟政府の領土まで送り届けられる車中で悶々と考えていた。
そのとき辿り着いた結論は、それは単なるディストピアだった。
ディストピアをディストピアと呼ぶ者は、自分が置かれた状況がディストピアであると知っている者である。つまり、その者はそれ以外を知っていなければいけないのだ。
さらに残念なことに、それ以外というものがユートピアではないことも事実である。
分かりづらい。
例えば、出生から臨終まで横たわる何から何までの全てを、私利私欲を持たず人類とエルフの存続を目的として働き続けるために存在する高度なAIによって管理された世界。
そこに住まう者たちには、怒りの感情がない。劣等感がない。差別も何もない。飢餓貧困、その類いも一切存在しない。そのような世界に生きている人間は、負の感情から生まれ、負の感情を振り払う為に存在する芸術や音楽を必要としない。
白と黒の単色の世界で、存続の為にストレスなく毎日を淡々と生き続けている。
その世界に生きている人間は、飢えも寒さも痛みも味わうことがなく、何一つ不自由がない。
しかし、そこに負の感情によって生み出されていた芸術に感動し、喜び、涙して、理不尽に対しては怒りを抱く者が忽然と現れたとしよう。
その者は怒りや悲しみがないことには何も不満を訴えることはないが、喜びや芸術がないことに対しては正義の顔をして憤慨するのだ。人生に色がない。単調な日々だ。生きている意味が無い。人らしさ。自分らしさ。と喚きだし、それまで感情のなかった者たちに、感情を植え付けて侵食していく。
植え付ける感情は、もれなく全ての感情だ。喜びといった正の感情だけを与えるのは不可能であるため、負の感情も植え付けるのだ。
生存本能と共にある負の感情の感染速度は、正の感情など比にならないほど圧倒的に速い。
そして、憎み争い奪い合いが始まる。
やがて、そのたった一人の存在によって、その世界は本当の意味でのディストピアになるだ。
つまり、調和を乱し、平和を崩したとなるのだ。
どちらが正解なのか。
何やら、自分の考えに違和感を覚え始めてしまった。




