マルタン芸術広場事件 第六十四話
操縦席から離れてアニエスのシートに近づき、石になり瞬きさえ忘れているアニエスの両頬を包み込むように叩いた。
二回ほど叩くと意識が戻ったのか、突然「うわー! うわー!」と悲鳴を上げた。
「しっかりしろ。これからもう一仕事だよ。陛下殿!」
左右を見たあとに、うんうんと小刻みに頷いた。
「これから飛び降りてダムを直す」と言うと目を丸くしたが、無茶振りにも慣れてきたようだ。目をつぶって嫌そうな顔で首を背けたが、シートベルトを外して立ち上がった。
アニエスが準備をしているので、俺は一足先に後部ハッチへと向かった。
「ティルナ、ウリヤとヘマのオバハンを頼んだぞ! アニエス、行くぞ!」
アニエスの手を引いて後部へ向かい、ハッチ開閉のレバーを引いた。
ピーブ音がなり黄色い警告灯が回転しはじめると同時に、夏の風とは思えないような冷たい空気が流れ込み、身体を包み込んだ。
大きく開くにつれて風の音が強くなり、回り込んだ風が早く飛び出ろと言わんばかりに背中を押してきた。
青々とした森が広がるマルタン丘陵が雲よりも遙か下に霞んで見えている。その中にひときわ大きな灰色の壁が見えた。上部にひびが入り、そこから漏れ始めた水がコンクリートの色を濃い灰色に変えている。
森の中、斜面のあちこちで煙や爆発が起きているのも見える。連盟政府・商会の連合軍とユニオン軍が戦っているのだろう。
山の下には、さらに亡命政府軍が屯しているが戦闘の気配はない。彼らは指揮権が不明瞭になり混乱しているのだろう。
「アニエス、降りたら君は亡命政府軍に指示を出してくれ! 俺はダムを直しにいく!」
分かりました、とやや引きつった声で返事が聞こえたので物理強化魔法を強めに身体全体にかけてタラップを降りていこうとしたら「ちょーっ、ちょちょちょ! ちょまぁっ!?」とコックピットから焦った大声が聞こえてきた。
「誰が動力の魔力を供給するんですか!?」
ティルナが前を向いたままコックピットで慌てながらそう尋ねてきた。
確かに、この飛行機を飛ばすためには魔力のみに依存している。魔力供給者が降りてしまえば、燃料なしで滑空だけで飛ぶグライダー状態になる。ここからラド・デル・マル空軍基地まではそう遠くないが、燃料無しでの到達は不可能だ。




