血潮伝う金床の星 第二十三話
昨日の夜の雨は明け方前に止み、山の手の邸宅から臨む朝方の街に霧を揺蕩わせていた。
シロークとともに車に乗り金融省へ向かう道すがら、対向を走る車のヘッドライトが霧の中から現れて、そして通り過ぎて消えていく。
陽が昇るにつれて霧は晴れ始め、金融省に着くころにはすっきりとした高い空が見えていた。雨あがりの秋空の下、磨かれた石畳に映る空に色とりどりの落ち葉が浮いている。早めに到着した始業前の省内は静かで、すぐ斜め前を足早に歩くシロークの呼吸の音まで聞こえてきそうだ。
その日は、言葉もだいぶ流暢になり日常生活にも困らなくなったカミュにマリークを預け、金融省一等秘書官であるシロークとともに彼のオフィスへと赴くことになった。人手が足りず、仕事を手伝ってほしいそうだ。
初めて訪れた彼の個室は、個室と言うには狭いがユリナとは真逆できっちりと整理整頓がなされており、彼女の部屋よりも広く感じた。コーヒーを二つ淹れて、一つをシロークに渡した。彼はデスクに寄りかかり左手をポケットに入れて、すする様にコーヒーを一口飲むと鼻から息を吸い込んだ。
「急に朝早くからすまないね。そういえば昨日カストを送っていったときに何か言っていたか?」
「特には。ただ脈絡なく、日記だ、と言われたぐらい」
彼は、ふむ、と小さく鼻を鳴らすと考えこむように手で口を押さえながら下を見た。
やはり昨日のことを気にしている様子だ。大人が涙を流してしまうほど、二人にとってマリアムネと過ごした過去はつらい思い出になってしまったのだろう。悲しみと、それぞれにシロークは亡くした責任を、カストは届かなかった思い。それぞれに足枷を付けて生きているのだ。
シロークが俺をここへ連れ出したのは、もしかしてその話をしようとしているのではないだろうか。確かに、家ではユリナに気を使ってしまい、うまく話すことができないので、人の出入りが少ない金融省の自室なら気兼ねなく話せるかもしれない。そして、感情的になってしまいついに聞くことができなかった選挙とマリアムネの死との関連についての話も気になっているのだろう。
口を押さえていた手を放してこちらを向くと、困ったような顔で俺に笑いかけてきた。
「昨日の夜はみっともないところを見せてしまった。いや、若気の至りだな。私たちは大人にならなければ……ん?」
外から大きな声がしたような気がして揃ってドアの方を見た。しかし、防音ではないが音を遮る木製のドアはきっちりと締め切られている。気のせいかと思ったが、再び何かの音が聞こえた。始業前で音がよく響くためか、だいぶ遠くから聞こえてくるようだ。次第にそれは近づいてきて、何を言っているのかが聞こえ始めた。
はっきりし始めたそれは、シローク、シロークと繰り返し名前を呼んでいるようだ。そして、大股で歩いているであろう足音が近づいてきて、オフィスのドアの前で止まった。
次の瞬間、
「シローク! 君は金融省長官という仕事をきちんと理解しているのかね!?」
と短髪の男がドアをバーンと開くと同時に口角泡をまき散らした。
ノックもせず入ってきたかと思うと、ずかずかと個室へ入り込んできた。止まることはなく、シロークの前へ立ちはだかった。そして、人差し指をトントンと胸に押し付けながら捲し立て、
「大変な仕事だぞ! 君には荷が勝ち過ぎる。悪いことは言わない。一生懸命稼いできた資金の無駄になってしまうから、すぐにでも取り下げたほうがいい! このままいけば、わたしが長官になるのは確実なのだ。君の采配ももう決定している。もちろん重要な立場だ! しかし、出馬を取り下げずにこのまま選挙に出れば、君の家にあるお金をすべて使い切ってしまうのは明白だ! 育ち盛りの男の子と生まれたばかりの娘に辛い思いをさせることになるかもしれないのだぞ! 君は家族が大事な男だと言っていたじゃないか! 家族を顧みないようなことをするとは見損なったぞ!?」
と言い放った。
あまりのいきなりの出来事に誰が入ってきたのか理解するのが遅れてしまった。片付いて広く感じていた個室が、その男が入ってきたことで途端に狭く感じ始めた。シロークの前で狼狽する、抜群の存在感を放つ声と足音の大きなその男は、ギルベールだった。俺たち二人は、何も言えず口を開けてその姿を見つめてしまった。
すると今度は、シロークの両手を汗まみれのてらてらの手でにぎにぎと握りながら引きつった笑顔になった。
「そうか! わかってくれたか! 物分かりがよくて助かる。やはり君は優秀なのだな!」
そして、自身の胸ポケットから何かを取りだして操作を始めた。「早い方がいい。わたしが選管に連絡をしておこう!」
圧倒されてうんともすんとも言えなくなった俺たちの反応を彼は肯定的に受け取ったのだろうか。上着の中から取り出した何かはどうやらキューディラのようだ。選挙管理委員会に連絡を入れてどうするつもりなのだろうか。俺は彼の言ったことを思い返してみた。
もしかしてシロークの出馬を止めようとしているのではないか。それに同時に気が付いた俺とシロークは慌てて動き出し、彼を止めようとした。
「ギルベール、無様だ。今すぐやめろ。本人でもないお前が連絡したところで意味がない。それどころか選挙妨害にあたるぞ」
しかし、いつのまにか個室へ入ってきていたさらに大きな男がギルベールの肩を掴み、キューディラでの会話を遮った。
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