マルタン芸術広場事件 第四十四話
「これでいいのです」
ティルナは肩で粗い息をしながら、辛そうにそう言って剣を収めた。
床には真っ赤に大きく、アニエスの髪の毛が散っていた。
「この紅い髪こそがルーア皇帝の象徴。受け継がれる者の一つ。畏怖の対象」
長かった髪は肩よりも下で大きく切られていた。真っ直ぐに散切りになった襟足が余韻で揺れている。
俺はこれまででこれほどアニエスの髪を見たことはあっただろうか。
何度も愛した女性の髪を、髪として、その一本一本まで丁寧に見たことはあるだろうか。
初めて会ったときから一度も切らなかったのだろう。よく手入れされている髪は毛先に至るまで枝毛も切れ毛も無く、血の川のように流れ広がっている。
――これほどまでに美しいものだったのか。
失ってから俺はその価値に気づいたことに、一縷の寂しさを感じた。
だが、髪を切った彼女はまるで別人のようだ。それでいてこれまでの優しい彼女を内に留めているようだった。
それは美しく、またどこか遠く、それも手が届かないほど遠くへ行ってしまうのではないだろうか。
そう感じるほどだった。
そして、大きく安堵のため息を溢してしまった。
ティルナはアニエスを切ることはないと分かってはいたが、本当に切ってしまうのではないだろうか、少なからずそう思っていたからだ。
兄の死は彼女に大きな変化をもたらした。剣士である彼女は人を切る心構えは訓練されている。誰でも切ろうと思えば容赦なく剣を振るえる。
兄の死によりカルデロンの会長に就き、ユニオンの国益を害する者は敵だという冷血になってしまったのでは無いだろうか。マルタンの不法占拠など、皇帝自身が返還を宣言したとしても占拠していた事実は変わらない。それを許しはしないのではないだろうか。
だが、そのようなことはなかった。カルデロンの血はそこまで冷たくなかったのだ。
「そうですか。それであなたが満足なら構いません」
アニエスは頷いた。ティルナはアニエスにもたれ掛かった。アニエスはティルナの頭を抱きしめた。
「ありがとう。あなたは優しい子です。私を切るようなことは絶対にしないと信じていました。でも、本当に切られてしまうかもしれないと怖かった。
皇帝となった今、あなた、いえ、あなたに限らず兄上が亡くなったことで大きな悲しみを背負った者たちへの出来る限りの償いを私自身の手でいたします」
「お願いします。兄も喜ぶはずです」
ティルナは兄エスパシオを亡くして以降、まるで冷たい真冬の雨のように鋭くなっていた。しかし、アニエスの腕の中で涙ぐむ彼女は、最初にサント・プラントンで会ったときの、自信なさげで少し天然気味のいたいけな少女に戻っていた。
しかし、ティルナはアニエスから離れるとすぐに表情を戻した。
いつまでも幼気な少女のままというわけもいかないのだろう。
「離脱しましょう。償うには生きていなければいけません。早速、移動魔法で逃げましょう。イズミさん……は今厳しそうですね。アニエスさんお願いします」
「残念だがそれは駄目だ」とヴァジスラフが前に出ると「陛下、ここは杖をお納めください」とアニエスを止めた。




