血潮伝う金床の星 第二十二話
手動ワイパーを握ると、つるつると音がして視界の雨水は横へ流れた。
グラントルアに向かう雨の夜道は、まだ遅い時間でもないのにいつもより閑散としている。
ギンスブルグ家敷地内で練習し、乗りこなすことができるようになった蒸気自動車を運転して、カスト・マゼルソンを邸宅まで送り届けていた。ルームミラーをちらりと見ると、規則的に差し込む街灯の灯りが窓ガラスの雨で滲みながら、外を眺める彼の憂鬱な顔を照らしている。まだ開発されて間もないゴム製のタイヤが道路の凹凸を吸収できず、ガタンガタンと音を繰り返しあげて、薄暗い車内を揺らしている。
沈黙と繰り返しの中で、後部座席で静まり返るカストは眠ってしまったのかとルームミラーに目をやると、すれ違う車のライトに照らされた彼と目が合った。
すると彼はゆっくりと微笑み、少し前かがみになった。
「イズミ君と言ったね。君は何者なんだ?」
逸らしたわけではないが、俺は視線を車の進行方向に戻した。
「ユリナ・ギンスブルグ軍部省長官の特別補佐官一等主任兼特級秘書官です。立場名は長いですが、それ以上でもそれ以下でもありません。自分には”過去”と言うものがないので」
二人きりにされて思わず軍人面して、俺、ではなくて、自分、と言ってしまった。返答を聞いた彼は少し残念そうに笑い、背もたれに寄りかかった。どうやら求めていた回答ではなかったようだ。
「そうなのか。ははは。不思議な雰囲気の持ち主だね。軍部省長官に近いものを感じる。杖も持っていて、強力な魔法も使える。ただものではなさそうだね」
「……恐縮です」
それから冷え切った車内には再び静寂が訪れ、フロントガラスと天井を叩く雨音、時折視界を横切る手動ワイパーの音だけになった。
ラウンドアバウトの交差点に入るときに、安全確認のためルームミラーを見るとカストは再び外の遠くの方を見ていた。表情は無かったが、それはどこか悲しそうで見ていられなかった。過去と友情と未来が交差する彼はもしかしたら誰よりも孤独なのかもしれない。
何か気の利いた冗談の一つでも言えればよかった。しかし、思い浮かぶのは慰めの言葉ばかりだ。彼をよく知らない俺が気を使って言う慰めなど、失礼この上ないだけだろう。右に曲がりラウンドアバウトを抜けた先の通りは高級住宅街で、街灯が煌々と光っているが車の気配も人の気配も全くない。両側は白い建物に囲まれていて街灯の光りを照り返し、まるで光の海の中を走っているようだった。
それから言葉を交わすことは一度もなく、グラントルアに中心部にほど近い、マゼルソン邸に到着した。敷地内に入り、玄関ポーチの前で車を止めた。降りてドアを開けて傘を差し、カストを邸宅のひさしの下まで案内した。俺の役目はそこまでだ。ひさしの外で傘を畳み、彼が家に入るまで敬礼をし続けた。
しかし、ドアが閉まり始め見えなくなる直前、流し目で俺を見つめてカストは言った。
「机の右下の引き出し。日記だ。忘れないでくれ」
そして、軋むドアは閉ざされ、鍵がかけられた。
ギンスブルグ邸に戻り、ベッドに寝転び新聞を読んでいた。
するとドアがノックされ、少し開けられるとアニエスが様子を窺うようにのぞき込んでいた。どうぞ、と言うと彼女は入り、そしてぐるりと部屋を見回した後、雨に濡れたまま椅子に掛けて放っておいてしまったコートを見つけて、もぅ、と鼻から息を漏らした。それを取り上げて、ハンガーにかけてくれたのだ。
ごめん、と言うと仕方なさそうに笑った。そして、寝転がっているベッドの隅にちょこんと座ると、読み散らかしていた新聞をまとめ始めた。何かしに来たわけではなさそうだ。
仰向けから横向きになり、彼女の方へ体を向けた。
「あの二人、学生時代、三角関係だったらしいよ」
「大変ですね。シロークさんも」
「自分はうまくいって好きな人と結ばれても、死んじゃったらね。一緒になれなかった方も気持ちを考えると、なんだかね……。大事な人が死んだときかー……」
ふと、自分にとって大事な人とはだれかといるかな、と思い浮かべた。真っ先に、そして一瞬だが、アニエスの姿が浮かんだ。きっとすぐ目の前にいるからだろう。近しい人が亡くなると、誰であれ悲しくなる。
「私は……、イズミさんですね。死んじゃったら悲しいです」
新聞を顔の前から少しずらして、彼女を見た。薬指を弄りながらこちらを見ている。
「そりゃ、いま目の前にいるからだよ。でも、できれば誰も悲しませたくないなぁ。そういえば、もう遅いけど部屋戻らなくて大丈夫なの? 明日は、まぁ、そんなに早くはないか」
「イヤです。お散歩できなかったから、もうちょっといます。ふふふ」
そう言うと足をパタパタ動かした。その動きに合わせてベッドが揺れた。それを見ていたらなぜか足の先で彼女の脇腹をつついてみたくなった。しかし我慢した。
「そういえば、オージーは相変わらず図書室?」
「そうみたいですよ。ときどきアンネリさんとは会えてるみたいで、だいぶ落ち着いてます。エルフの言葉を覚えるのに必死みたいですよ。どうしても科学技術を学びたいみたいです。人間は魔法頼りのところがあるけど、エルフの科学はそれに負けないぐらいすごいですからね」
「すごい情熱だな。平和になったらシロークに頼んでみるか」
それから何か話すわけでもなくアニエスは傍にいて、鼻歌を歌っていた。
気が付いたときには部屋は真っ暗で、毛布が掛けられていた。
俺はまた彼女の前で寝落ちしたようだ。
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