マルタン芸術広場事件 第十話
クロエは平手打ちをしてきたのだ。彼女は怒りに肩を上下させて俺を見下ろしている。
「殺さないのは結構です! 敵に情けをかけるのも結構! ですが、兵士は命令に従う! 責任も上が取る! 彼らは死ぬ覚悟できています! 誰が撃ったのかは知りませんが、その人たちも命令に従っているだけなのです! あの人はあなたが殺したのではない! アニエスさんを助けたいのではないのですか!?」
これまで道化ぶった笑顔やユリナにぼろきれにされたときの苦悶の表情などを見てきた。しかし、どれも薄い表情であり、どこかに虚があった。
クロエの剣幕とその言葉はどれも鬼気迫るものがあり、これまで見たことも無いようなほどに感情がこもっていた。
俺は驚いて硬直してしまった。
今度は呆然としている俺の胸ぐらを持ち上げると「そんなようでは誰も助けられませんよ! しっかりしてください!」と喝を入れてきた。
クロエの言うとおりではある。
だが、誰も殺さないと、マゼルソン法律省長官を撃ってから誰が攻撃したものであっても誰も死なせないとさらに強く心に誓ったにもかかわらず、こんなにあっさりと破る事になるとは思いも寄らなかった。
確かに、亡命政府軍が俺たちを殺すつもりで待ち構えている所へ飛び込んでいって、こちらが誰一人も殺さずにアニエスを救出しようというのは甘い考えであることは薄々どこかで分かっていた。
どこかで意地になっていたのだ。意地で生まれた行動力はその実ただのヤケクソなのだ。
ただのヤケクソでしか行動できない自分が途端に情けなくなった。そして、それに気がつけば気がつくほどに自分の中の熱が冷めていくのを感じる。
このままでは本当にアニエスを助けられない。助けられなければマゼルソン法律省長官は俺がただ無駄に殺しただけになってしまう。
これは“戦争”なのだ。
一体、何度目の自覚だろうか。それでもまだ俺は“戦争”だと自覚出てきていなかった。
狂気は常に変質する。何度自覚してもそれは再び幻になる。
俺はまだ治癒魔法を掛けに行こうとしている膝を思いきり叩いた。ありがたいことにすぐに切り替えられるほどには成長、ただ麻痺していた。北公で負傷した兵士を治療していたことも無駄では無かったのだ。
「切り替えが早くなりましたね。成長したようですね」とクロエは表情なく俺の腕を掴み、持ち上げてくれた。
「黙ってろ、クソ眼鏡」
捕まっていた手を一度強く握り返してやった。
「ところで、なんでこの事態にスヴェルフが混じっているでしょうね?」とクロエは晴れ始めた煙の方を睨みつけた。
追うようにそちらに目をやると、もはやむしろいない方が自然な男がそこに立っていた。そう言う状況は慣れるどころか、飽き始めている。それさえも通り越して誰がいても驚きはしないが、こいつはいないと不自然だ。。
「男の声がしたのはお前か。ムーバリ」




