ワタベの追憶 後編
「ワタベさん、感慨深そうな顔してどうしたんですか?」
目を閉じていたところ、シバサキが話しかけてきた。テーブルの上のジョッキに2センチほど残ったビールを見て昔のことを思い出していた。ノルデンヴィズの路地裏の酒場は、日本のごちゃごちゃとした飲み屋の、さながら高架下の飲み屋を彷彿とさせるので、懐かしい気持ちにさせてくれる。
「ちょっと、日本にいた頃を思い出してね……」
「大変だったらしいですね……。誰もやるべきことをやらなくて、そのせいで死ぬことになっちゃったんですからね……。僕とは時代が違いますが、戦後最大に厳しかった僕の時代だったとしても立派な企業戦士なれたでしょうね」
わかりきったように慰める眼差しでのぞき込んできた。自分たちは報われなかった企業戦士で、お互いの苦労をねぎらうような瞳のうるおい具合が何とも不愉快だ。シバサキはバカだな。自分のいた時代が一番つらいと思っているようだ。ずっと一生懸命に働いてきた人間からすればただの甘えとしか思えない。
「そう言ってくれるとわしもうれしいよ。君みたいな部下が日本にいた頃いてくれれば死なずに済んだかもしれない」
「それじゃワタベさんには会えませんでしたよ」
「確かにそうだな! ははは!」
死んでよかったとでも言いたいのか。失礼な奴だ。
シバサキはビールを一口飲むと遠くの方を見た。感慨深そうになれるほどの頭と過去を君は持ち合わせていないだろう。
「いやー……、でもワタベさんを仲間にして本当に良かったですよ。これほどまで心強いとは思いませんでした」
そして、ため息交じりにテーブルに肘を載せ、前のめりになった。このバカは相変わらず私を信用しきっているようだ。そのままでいてくれよ。その方が都合がいい。
「何を言っているんだ、シバサキくん。君の人柄があったからこそ、君のチームに所属したんだよ。若手たちはその優しさに付け込んでしまったんだね……。君は本当に真心のある人間だ。今は受難の時だが、君はいつかきっと必ず大成する。そう……、大器晩成なんだよ」
中身のない労いの言葉を穏やかにかけると、シバサキの目がわっと輝いた。そして震えた声で「やっぱ、ワタベさんはわかってるなぁ……」と言った。安い言葉にいともたやすく感動できるとは、むしろ羨ましい性格だ。
しかし、その程度で満足してしまうほど無能なうちは無理だ。ただのおだてにすら気づけない君が大成するのは永遠のその後だろう。はっ、自分で言っておきながら笑えてしまう。
「そうだね。これからの君とわしの未来に、大いなる仲間に、乾杯だ!」
あえてシバサキよりもジョッキの高さを低くして、カチンと鳴らした。
バカもおだてりゃなんとやら。君のバカさ加減に完敗、乾杯だ。
それからしばらく懐かしい話をして過ごしていたときだ。すでにシバサキは三杯目に突入して、たいぶ回ってきたのか、鼻の先まで赤くなっている。
面倒くさいのに面倒くさいのが寄ってくるのが、この世の定めと言うのだろうか。
「ジィさんたち、邪魔するぜ」
大柄の、身長は二メートルぐらいだろうか、筋骨隆々の男が話しかけてきた。そして、我々の間に入り込み、テーブルの上に思い切り手を叩きつけた。大きな音がしてテーブルに載っていた皿やグラスが揺れて中身がこぼれると、酒場が静まり返り視線が一斉に集まった。その男は手をついたままシバサキの方を見て笑いだした。
「てめえシバサキだろ? 若手の敵の」
「僕は確かにシバサキだが……、君は誰だ?」
迷惑そうに眉を寄せてシバサキは男に尋ねた。すると待ってましたと言わんばかりにポーズを取り、体を大きく見せてきた。私の視界の真ん中にちょうど彼のイチモツのあたりが来た。シバサキに負けず劣らず不愉快な男のようだ。そして、
「俺はノルデンヴィズの破壊のゴーレム!ベルナドント様だぁ!」
と大声を上げた。
「ほほぉ……、有名になるとそんな異名がつけられるのか」
思わず感嘆のため息が出てしまった。素晴らしい。素晴らしくダサい。口に名前を出すのも憚られるほどに。さてはて、シバサキはいったいどんなダサい異名を付けられているのか。茹でキャベツ香る勇者かな。
「とりあえず殴らせろ! お前を殴ったて言やぁ、若い連中が言うこと聞くからよォ!」
余計なことを考えている私をよそに、太い腕が伸びてシバサキの首元を掴んだ。そしてまたしても持ち上げられている。やれやれ、首を掴まれる趣味でもあるのだろうか。女剣士や料理人にされた以前とは違い、目も据わったまま大男を見ていて、落ち着いてはいるようだ。だが、一応止めておこう。
「破滅の……、トーテムの、ベル……、ベルガ……、ベルガモット……、君? 暴力は良くないよ。シバサキ君を放したまえ。怪我してしまうよ」
ベルガモットの顔は真っ赤になり、岩石のように角ばっていた輪郭は丸く膨れて、少し触れば弾けそうな風船ようになった。
「破壊のゴーレムのベルナドントだ! ボケジジィ! 怪我でもなんでも、ちょーっと痛めつけれりゃそれでいいんだよ! そうすりゃ聖架隊から声がかかるかもしれねぇからよ!」
こちらを向いて大声を上げたので唾が飛んできた。おもわず避けたが顔中にしわが寄ってしまった。汚らしいと言いたいが、これはこちらも失礼なことをした。素敵なダサい名前を間違えてしまったようだ。
耳の先まで血が回ったベルナドントに掴まれたまま、宙に足をぶらつかせながらシバサキはすまなそうに笑っている。そして、「ワタベさん、座っててください。僕のほうで何とかしますから」と、声帯のあたりが閉まっているのかかすれた声でそうに言うと、ベルナドントの腕をそっとつかんだ。
「若手の言うことが聞かせたいのか?」
掴んでいる腕にシバサキの手のひらがぐいぐいと食い込み始めた。その様子のおかしさに気が付いたベルナドントの表情が青ざめ始めた。おい、と不安な声で止めさせようとしている。
「若手に言うことを聞かせて何をするんだ?」
がっしりと腕を掴む手のひらを振り払おうとして、動きが大きくなった。しかし、さらに手のひらは食い込み、大男の腕は紫色になり始めた。
「どうするんだ?」
シバサキが追い打ちをかけるように聞くと、ついに大男は泣きだし、大声で許しを請い始めた。しかし、腕は放されることなく、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべるシバサキにさらに強く握られている。すると男の腕はみちみちと腱や皮膚が裂ける音がし始めた。
そして果物を潰したような、グチッとした音がすると赤い塊が飛び散った。飲んでいたジョッキにその一つが落ちると、タポンと音がしてビールに赤い色が混じり、ピンク色の泡が立った。底から湧き上がる炭酸に乗ってその破片が浮いている。ついに握りつぶしてしまったのだ。大男の腕は指の形に皮膚は裂け、筋肉までが露出して真っ赤な血を滔々と流れさせている。そして、大男はみっともなく泣き叫び、床に転がり腕を押さえてのたうち回り始めた。さすがにやりすぎだろう。加減を知らんバカタレが。大男を見下すシバサキは手に付いた血をふいている。
「騒ぐなよ。すぐに止血すりゃ問題ないだろ。ひぇー、きったねぇなぁ」
ノルデンヴィズの行きつけである路地裏のこの店は、質の悪い連中しかいない酒場だ。治安がいいと言われるこの街で、唯一クソのたまり場の例として上げられるのがここだ。勇者もどきとチンピラと焦点の定まらない酔っぱらいしかないので、何が起きても誰も何も言わない。当然だが助けもしない。
ベルナドントが大きな体を激痛によじらせ、鮮血で床を汚す姿はあまりにも醜く、それを通り越してもはや哀れだ。そしてあげる音も見た目も騒々しい。そっと杖を振り治癒魔法をかけてやると傷は塞がった。だが、治癒魔法に対してもやめろ、何をする、と驚いていた。動揺しすぎだろう。
汗まみれになった額とおいおいと泣く様子は、先ほどからの大きな態度とはうって変わってまるで小物だ。傷が治ったことに気付くと、大男は慌てて店から出て行った。騒ぎで一度は衆目が集まったものの、すぐに落ち着きを取り戻し再び飲み始めた。
「貰ったもんだが……、まずはこんなもんか」
シバサキは手のひらの裏や表を見ては指を動かしている。それが終わると肩をぐるぐるストレッチするように回した後、椅子に腰かけた。誰かに大きな力を貰って、それを試さずにはいられなかったのだろう。
「なんだセイカタイってのは。白黒の服着てゴスペルでも歌うのか?」
「知らんよ。あいにく祈る神が違ってな。さて、シバサキ君。これからどうする?それをくれた人の話では南に行くのが正解なような気がするがな」
「いえ、それでは、それだけではその人が満足はしてくれませんよ」
「ではどうするのかね?」
剃り残した汚い髭面で決めた顔を作り、にやりと笑った。
「まずは北。辺境を目指しましょう。会わなければいけない人がいます。南はそれからです」
この男は間違いなく何も考えていない。それは事実だ。だが、稀に智略に満ちた顔をして物事を言うときがある。バカの考えることだ。ろくなことでは無かろう。
「はっはっはっ、面白そうだね! では北へ向かうとしよう!」
ビールを飲み干し、出発の準備を整えるために我々は店から引き上げることにした。
「待ちな、あんたら。北に行く前に床の血ィ拭いてきな。あとさっきの男の分の勘定も」
声の方へ振り返ると、店主の酒樽のようなおばさんが仁王立ちしていた。手にはモップを持ち、皺の刻まれた鉤鼻の奥の瞳が我々を睨みつけている。
まったく、面倒な奴らばかりだ。
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